昨日SNSか既存メディアかという反古化した前時代の遺物的問いかけのみを問題にしたわけではまるでない。情報伝達の今日的状況下で「書かれた言葉」あるいは「詩の朗読」を含む「身体の言葉」について、言語使用者にとって、要するにすべての人類にとって、信頼でき評価に値する基準はどこまでいっても不可避的脱中心化作用を被らないわけにはいかない不信感が充満している。それでもなお手元に届けられる情報をどのように評価でき得るのか。そう問うた。
引用箇所のすぐ前にこうある。
「谷川俊太郎の訃報が流れたとたん、SNSで多くの人が、詩を呟き始めたのである。『この詩が好きだった』と書く人たちのなかには、出典を参照せず、暗誦したものを書いている人も多かったはずだ」(石井ゆかり「星占い的思考(59)」『群像・2・P.425』講談社 二〇二五年)
「出典を参照せず、暗誦したものを書いている人も多かったはず」
出典の明記に関しSNSの場合は規制が大変ゆるい。だからといって出展の明記に関し法的ハードルを上げるべきかといえば短絡的にそう言えない。大切なのは引用目的の明確性と情報の信憑性並びに公益性だというのが通例である。
さらに。
「暗誦したもの」
その中にはどれほどの記憶違いが別の記憶へ置き換えられて発信されていただろうか。それが昨日述べる時間がなかったもうひとつのトピックである。プルーストはいう。
「というのも私は、美しいボディーラインを目撃したり、生き生きした顔色をかいま見たりするだけで、そうあるはずだと信じて、そこに惚れぼれする肩や甘美なまなざしなど、私がいつも想い出や先入観として心のなかに蓄えているものをつけ加えてしまっていたからである。このようにちらっと見ただけであわてて人を判断して陥る誤謬は、大急ぎで文章を読んでいるとき、ひとつのシラブルを見ただけで残りのシラブルを確認する時間をとらず、記された語のかわりに記憶からとり出した語を読んでしまう誤りと似ている」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.343」岩波文庫 二〇一二年)
このような「置き換え/誤訳」を起こしてしまわない人間がどこにいるかというよりも人間の社会生活自体がそもそも「置き換え/誤訳」なしに動いていかないという点に関心を覚えもするのである。
またここで上げた「置き換え/誤訳」というフレーズ。ブレイディみかこが問題にしている問いへ関心は向かう。前に一度引いた。
「著書では、人間の身体的痛みを感じなくするための薬品はふつうに使用しているのに、精神的痛みだけはそのまま放置していると書いていました。そして、将来的には薬理学や遺伝子工学などの力で、人間(と動物)の生活から不快な経験を廃絶することができるというわけです。けれども、僕はこれを読んだとき、なんだか形容しがたい恐ろしさを感じたのでした。彼の言う『不快な経験と、それを原因とする精神的苦しみの廃絶』は、不快な経験そのものをなくそうということではないからです。そうではなく、悲しいことや嫌なことがあっても、そう感じないように薬を使ったり、遺伝子をいじって特定の体験がネガティブな感情に結びつかないよう神経を操作する。それが人々を幸福にするというわけです」(ブレイディみかこ「世界は誤訳でまわってる(4)」『群像・2・P.202』講談社 二〇二五年)
どんな暴力を振るわれても振るわれた側がそれを苦痛と感じなければそれは暴力とは呼ばず暴力ではない。そしてテクノロジー装置を用いて人体を日々アップデートさせることができるほんのわずかな富裕層だけが世界の支配者になれるというわけだ。それが可能な人々だけがーーーそれを人間と呼ぶかどうかは別としてーーー暴力を振るう側が常に特権的立場をキープできる。紛れもない「優生思想」というほかない。ところが高度テクノロジーの最先端ではほとんど主体化したテクノロジーが主導する「トランスヒューマニズム」(自動的アップデート機能を埋め込んだ人体が世界秩序を支配する)研究が盛り上がりを見せている。倫理的議論はなぜか置き去りにされている感が否定できない。
さてしかし、巨大スポンサーを背後にひかえるマス-コミも意味不明に等しい情報が大量に流れるSNSも、では何をどこまで信用できるのか。疑問はつのるばかりである。