白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ449

2025年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年一月二十一日(火)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

ルーティーンって何歳くらいのことを言うの、飼い主?

 

タマさん、それもしかして「ボケとツッコミ」の「ボケ」?

 

違うよ。真面目に聞いてるの。

 

ちなみに英語なら日課とか同じ作業の繰り返しって感じかな。退屈だって人もいるけど自分にはそれが向いてるって言う人も案外いる。

 

その途中に挟まってる「感じ」って、漢字?

 

お前さん、遊んでるだろ?

 

えへへ、ばれちゃった。

 

もうひとつ言っとくとね、ここんとこ飼い主飼い主って気安く呼び過ぎると思わない?

 

それなら飼い主だったタマのこと時々お前さんとか言う。気安く呼び過ぎると思わない?

 

じゃあタマさん、最近ね、反抗期なの?

 

反抗期かあ、ルーティーンって。

 

んなわけないだろ。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ドゥーチー。ヒップホップと言ってしまうのは簡単だろう。では困難なのか。そういうことでもまたない。あちこちでヒップホップを見かけるようになると今度はその初期から発展期の頃に何があったのかをともすれば忘れてしまっていることがある。アンビエントが当たり前のようにメジャー化するとそのモドキのほうが一般受けして広く流通するという転倒が起きるように。だからといって転倒してしまったものを再転倒させればいいというわけでもないと思わせてくれる。


Blog21・詩とメディア性(補遺)

2025年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日SNSか既存メディアかという反古化した前時代の遺物的問いかけのみを問題にしたわけではまるでない。情報伝達の今日的状況下で「書かれた言葉」あるいは「詩の朗読」を含む「身体の言葉」について、言語使用者にとって、要するにすべての人類にとって、信頼でき評価に値する基準はどこまでいっても不可避的脱中心化作用を被らないわけにはいかない不信感が充満している。それでもなお手元に届けられる情報をどのように評価でき得るのか。そう問うた。

 

引用箇所のすぐ前にこうある。

 

「谷川俊太郎の訃報が流れたとたん、SNSで多くの人が、詩を呟き始めたのである。『この詩が好きだった』と書く人たちのなかには、出典を参照せず、暗誦したものを書いている人も多かったはずだ」(石井ゆかり「星占い的思考(59)」『群像・2・P.425』講談社 二〇二五年)

 

「出典を参照せず、暗誦したものを書いている人も多かったはず」

 

出典の明記に関しSNSの場合は規制が大変ゆるい。だからといって出展の明記に関し法的ハードルを上げるべきかといえば短絡的にそう言えない。大切なのは引用目的の明確性と情報の信憑性並びに公益性だというのが通例である。

 

さらに。

 

「暗誦したもの」

 

その中にはどれほどの記憶違いが別の記憶へ置き換えられて発信されていただろうか。それが昨日述べる時間がなかったもうひとつのトピックである。プルーストはいう。

 

「というのも私は、美しいボディーラインを目撃したり、生き生きした顔色をかいま見たりするだけで、そうあるはずだと信じて、そこに惚れぼれする肩や甘美なまなざしなど、私がいつも想い出や先入観として心のなかに蓄えているものをつけ加えてしまっていたからである。このようにちらっと見ただけであわてて人を判断して陥る誤謬は、大急ぎで文章を読んでいるとき、ひとつのシラブルを見ただけで残りのシラブルを確認する時間をとらず、記された語のかわりに記憶からとり出した語を読んでしまう誤りと似ている」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.343」岩波文庫 二〇一二年)

 

このような「置き換え/誤訳」を起こしてしまわない人間がどこにいるかというよりも人間の社会生活自体がそもそも「置き換え/誤訳」なしに動いていかないという点に関心を覚えもするのである。

 

またここで上げた「置き換え/誤訳」というフレーズ。ブレイディみかこが問題にしている問いへ関心は向かう。前に一度引いた。

 

「著書では、人間の身体的痛みを感じなくするための薬品はふつうに使用しているのに、精神的痛みだけはそのまま放置していると書いていました。そして、将来的には薬理学や遺伝子工学などの力で、人間(と動物)の生活から不快な経験を廃絶することができるというわけです。けれども、僕はこれを読んだとき、なんだか形容しがたい恐ろしさを感じたのでした。彼の言う『不快な経験と、それを原因とする精神的苦しみの廃絶』は、不快な経験そのものをなくそうということではないからです。そうではなく、悲しいことや嫌なことがあっても、そう感じないように薬を使ったり、遺伝子をいじって特定の体験がネガティブな感情に結びつかないよう神経を操作する。それが人々を幸福にするというわけです」(ブレイディみかこ「世界は誤訳でまわってる(4)」『群像・2・P.202』講談社 二〇二五年)

 

どんな暴力を振るわれても振るわれた側がそれを苦痛と感じなければそれは暴力とは呼ばず暴力ではない。そしてテクノロジー装置を用いて人体を日々アップデートさせることができるほんのわずかな富裕層だけが世界の支配者になれるというわけだ。それが可能な人々だけがーーーそれを人間と呼ぶかどうかは別としてーーー暴力を振るう側が常に特権的立場をキープできる。紛れもない「優生思想」というほかない。ところが高度テクノロジーの最先端ではほとんど主体化したテクノロジーが主導する「トランスヒューマニズム」(自動的アップデート機能を埋め込んだ人体が世界秩序を支配する)研究が盛り上がりを見せている。倫理的議論はなぜか置き去りにされている感が否定できない。

 

さてしかし、巨大スポンサーを背後にひかえるマス-コミも意味不明に等しい情報が大量に流れるSNSも、では何をどこまで信用できるのか。疑問はつのるばかりである。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1043

2025年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Fold4,Wrap5」

猫が関心を示すピチャピチャ音がリズムの前面に出る曲。2:55以後に特徴的な金属音が入ってくる。どの金属音もピッチが異なり飽きさせない。金属音ばかりだと思って聴いているとだんだん低い音になってくると金属ではなくただ単なる木を叩いている音にしか聴こえないのがにやりとさせられる。曲の特徴としてはテンポが速くなったり遅くなったりを繰り返す点。速度といっても譜面があるすれば譜面どおりに区切られた変化ではなく速い箇所から遅い箇所あるいはその逆へ向かう際緩やかに変化するところが面白い。


Blog21・NHK「100分de名著」〜「心の傷を癒すということ」(第3回)への若干の補足

2025年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日放送を見た。

 

中心的な話題としては取り上げられていないが被災現場の至るところで起こっていた暴力行為を含むアルコール依存症問題について僅かばかり補足しておきたいとおもう。

 

一九九五年一月十七日阪神・淡路大震災発生。

 

「心の傷を癒すということ」(第3回)を見た限り、避難所や屋内外を問わずアルコール絡みの問題が様々な形で顕在化したことは番組内でもほんのひと言ほど触れられていた。だが他にも暗澹たる惨状を呈している避難所が多々あったのは周知の通りである。それまでアルコールから離れることができていた患者も震災当日すでに再飲酒し出した事例はおそらく星の数ほどもあったと考えられる。

 

ところで震災の翌年にあたる一九九六年一月二十~二十一日「全日本断酒連盟 第32回全国(神戸)大会」開催。全国大会は震災前から順番が決定しており復興作業と並行して一年で開催にこぎつけることができた。参加者六〇一八名。そのとき京都から参加することができたひとりが今このブログを書いている。会場の様子は昨日のことのようによく覚えている。会場への往復に利用した公共交通機関の車窓からは瓦礫と化して放置されたコンクリートの生々しく巨大な塊をいくつも昼間のぼんやりした陽に晒したポートアイランドの風景がどんより灰色に映って見えていた。気分は望洋たる鬱状態でほとんど力が湧いて来ず自動機械人形のように歩いている以外その場にしゃがみ込んでしまうか一刻も早く京都へ戻って落ち着きを取り戻したい焦りを感じていた。

 

とはいえ、参加者六〇一八名のうち震災で最もダメージを受けたと言われる兵庫県神戸市東灘区、灘区、長田区在住のアルコール依存症者が一斉に再飲酒し出したかと言えばそれは違うと言わねばならない。

 

倒壊家屋数や被害者数を見ると医療従事者を含めやむを得ずアルコールや薬物で「心の傷」を曖昧にするほかなかった被災者はなるほど多いように見えるしショックのあまり依存症ではない人々が震災をきっかけにアルコールにのめり込み依存症を発症した報告なら幾つもなされている。しかしそれらの人々を責めるのは確実に誤りだろう。

 

一方、震災直後であるにもかかわらず震災前と変わらず毎週地元で行われている断酒例会を壊れてしまった会場の代わりに文字通りの手作り、要するにただ空いている場所を見つけてござを敷き輪になっただけで集まった何人かばかりで今日も一日飲まないでいられたというひと言を仲間の前で言いに来るというミニ断酒会とでもいうべき集まりは幾つかの場所で細々と続けられていた。再飲酒し出した患者はさすがに多かったばかりか自殺者も出した。そんななか相当数は減っただろうなと思いつつ仲間たちの集まりを探して断酒例会に顔を出しにやってくる患者は一身上の都合でてんてこ舞いしながら参加者は確かに減って細々とではあってもまるでなくなってしまったわけではなかった。細々と続いていた。断酒会の他にAAという自助グループも機能していた。AAは当時からすでにアルコール・薬物に限らずギャンブル依存症や摂食障害などにも取り組んでいる。

 

そして言いたいのは激甚被災地の被災中であってもなお、さらに「心のケア」という言葉が根付いていなかった当時でさえすべての依存症者がまったく同一の行動へ逆倒するというわけでは決してなく、震災前と変わらずむしろ淡々と自覚的に居場所を見つけ居場所を尋ね探し出しあるいは居場所をこつこつ作り上げながら、なおかつなるほどぎくしゃく手探りするほかないものの震災を一歩ずつ少しずつ乗り切り、そうすることで一年のあいだに全国大会開催へこぎつけることができたし、また、できるのだという目撃証言として記憶しておきたいということだ。

 

このようなことは人間ひとりの手にあまるのは論をまたない。震災であたり一面パニック状態に陥っている際にも今自分ができることは何か、アルコール依存症者の細々とした週一の集会に顔を出すことではないかとおもう人々がほんの数人いたというだけで、仲間が集まってきてくれたというだけで、震災の翌一九九六年には予定通り全国大会開催を実現させた。そんな普段ならほとんど誰が見てくれているわけでもない場所から大げさでもなんでもなくその日もまた始めることができる場所が震災被害の中心地へ行っても当時の日本にはひとつなりともあったのだと、今の日本のすべての報道機関のどこか後ろ暗ささえ仄見える態度を見ていて振り返らざるを得ないのである。