白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ451

2025年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年一月二十三日(木)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

飼い主さあ、毎日のようにNHK批判してるみたいだけど、じゃあなんで昨日一昨日と「バニラな毎日」って見てたの?

 

タマさん、いつどこで誰がどんな番組見てるとかってSNS時代には結構デリケートな話なんだよ。気軽に口にしちゃいけない。

 

でも何で原作者の出身校まで調べてたのさ。

 

おしゃべりだなあ。それは単純な話、大学や専門学校在学中にがらりと変わる人って少なくないって点がひとつ。もうひとつ上げるとしたら何がきっかけでどこがどんなふうに変わったかとかに関心があるんだ。飼い主自身がそうだった。それもかなり複雑な経緯で。にしてもお口にチャックとも言うから、タマさん。

 

お口にチャック?そんなこと、ご飯が食べれなくなってタマ生きていけなくなっちゃう。

 

ちなみにそれは「ボケとツッコミ」でいうところの「ボケ」かい?

 

どちらでもないよ。マジ。鯵じゃなくて。

 

マジって魚いるのかな?真鯵なら聞くけど。

 

話をすり換えようなんてひどいや飼い主。

 

わかったマジね。じゃあタマさん、「マジモノ」って知ってる?

 

マジモノ?「真面目な者ども」って感じ?

 

ははあ、そう思う?こんな話がある。

 

「『これらの蠱物(まじもの)を捉(とら)んは何の難き事にもあらじ』」(上田秋成「雨月物語・蛇性の淫・P.118」『日本古典文学体系 上田秋成集』岩波書店 一九五九年)

 

蠱惑の蠱だ、とっても可愛い猫さんを見つけて思わず拾ったって人が蠱惑的とか言ってるの見て覚えたんだけど、飼い主が引っ張り出してきた文章だと何だか意味が違ってそうな。

 

いや、そんなに違わない。この蠱物(まじもの)はね、人を惑わせる魔性のものという意味さ。たまたま熊野にやって来てた偉そうな和尚さんが登場して物の怪のような怨霊のような魔性のものを退治することなんて俺に任せとけって啖呵を切るシーン。

 

どうなったの?

 

出てきた魔性のものってのが途方もない大蛇でね、積雪みたいに真っ白に光り輝く頭部だけで部屋の入口一杯を占めていて真っ赤な舌をれろれろさせてる。それを見た和尚さんは気絶した倒れちゃった。結局地元熊野の道成寺の和尚さんが登場して女性に取り憑いていた1メートルくらいの蛇を鉄鉢の中に封じ込めてさらにもう一匹ね、多分親蛇の子かも知れないんだけど少し後からちょろちょろ出てきた30センチくらいの小蛇も鉄鉢の中に封じ込めてねんごろに弔い蛇塚(おろちづか)を作ってやって一件落着したらしい。年齢性別に関わらず執念深いものの代表とされてきた多様な性欲のことを蛇というひとつの象徴に結晶させたわけ。

 

タマわかった。今年の干支の蛇さんの話なんだ。またしても縁起物なんだね。

 

けど縁起物ってのは常に両義的な意味を持つって前に話したよね。

 

聞いたよ。

 

最近はさ、片方じゃなくて両前足上げてる招き猫売ってる。なんで?

 

タマにわかるわけないじゃん。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ドゥーチー。ヒップホップと言ってしまうのは簡単だろう。では困難なのか。そういうことでもまたない。あちこちでヒップホップを見かけるようになると今度はその初期から発展期の頃に何があったのかをともすれば忘れてしまっていることがある。アンビエントが当たり前のようにメジャー化するとそのモドキのほうが一般受けして広く流通するという転倒が起きるように。だからといって転倒してしまったものを再転倒させればいいというわけでもないと思わせてくれる。


Blog21・《非-連続的》遊牧性としてのグレーテ/古典的家父長制下の「女中/娼婦/姉妹」という「ずれ」

2025年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム

カフカ「変身」からさらに。

 

「そのとき、彼のすぐわきになにかが飛んできて、彼の前をころがった。林檎(りんご)であった。やんわりと投げられたらしい。つづいてすぐ第二の林檎が飛んできた。驚きのあまりグレーゴルは立ちすくんだ。それ以上這って逃げてももうだめだった。父親は爆撃の決意を固めていたからである。食器棚(だな)の上にあった果物皿(くだものざら)からどのポケットにもいっぱいつめこんだ林檎を、さしあたってはぴたりとねらいをつけずにやたらに投げだしたのだ。小さな赤い林檎は電気仕掛けみたいに床の上をころげまわってぶつかりあった。そっと投げられた林檎の一つが背中をかすったが、べつに背中には異状なく林檎は滑りおちた。ところが第二弾が背中にぐさりとめりこんだ。場所を変えれば、突然の信ずるべからざる背中の苦痛が消えるとでもいうように、グレーゴルはさらに逃げようとしたが、まるで釘(くぎ)づけにされたような感じで、全感覚が完全に狂ったまま、その場に伸びてしまった。目が見えなくなる直前、自分の部屋のドアが開かれるのをやっと見ることができた。なにごとか叫ぶ妹のうしろから母親が走り出てきた。下着のままだった」(カフカ「変身・P65~66」新潮文庫 一九五二年)

 

その意味は明瞭だろう。

 

(1)父親は息子グレーゴルに「林檎(りんご)」を投げつける。一度目は様子を見るように「やんわりと」。二度目に林檎が投げられた時すでにグレーゴルは「立ちすくむ」。三度目以後は空襲に近い。もはや脅迫と言わねばならない。

 

(2)母親の行動。「なにごとか叫ぶ妹のうしろから母親が走り出てきた。下着のままだった」。グレーゴルと両親とのあいだを往還しうる《境界人/貨幣/言語》としての妹グレーテを《差し置いて》母親の欲望が描かれている。

 

(1)(2)はともにフロイトのいう「オイディプス三角形」への復帰の呼びかけである。<パパ-ママ-ボク>だけのおぞましい近親相姦的な家族形態への復帰。ところがその種の古風で頑固でパラノイアな家父長制的価値体系から別の価値体系へ移動したグレーゴルはその呼びかけに戸惑いを隠せない。すでに妹が身の回りの世話一切へ取りかかってくれている。

 

「妹がグレーゴルの部屋の掃除をしているあいだじゅう、父母のどちらもよく部屋の外に待っていて、妹が外へ出てくるやいなや、部屋の中の様子や、グレーゴルの食べたものや、挙止振舞いや、ひょっとして少しはいいほうへ向う兆(きざし)が見えたかどうかというようなことなどを、妹はくわしく両親に語りきかせなければならなかった」(カフカ「変身・P52」新潮文庫 一九五二年)

 

グレーゴルはフロイトのいうような息子、父を乗り越えて母を我がものにしようとするが圧倒的に不利な力関係からその不可能を思い知ることで母を諦めて自らが新しい父になりもう一個のオイディプス三角形を再生産するに留まるような息子ではない。また妹グレーテもただ単なる妹として、ゆくゆくはどこか「別の家」へ「再生産装置としての女」としてもう一個のオイディプス三角形を作るための修行として兄グレーゴルのそばで一時待機しているわけではない。グレーテは兄グレーゴルにとってすでに母を越えたあるいは母の歩んできた女性像とは異なる何物かだ。こうある。

 

「妹は事グレーゴルの身の上にかんするかぎり、両親などよりははるかに事情に明るく、また事情通と目(もく)されていたし、自分からもそう思いこんでいたしだいであり、それもぜんぜんいわれのないことではなかった。そういうわけでいまのような母親の忠告は妹にとっては、最初はそれしか考えに入れていなかった箪笥や書き物机のみならず、必要欠くべからざる寝椅子は例外としてことごとくの家具を片づけてしまうという意見を固執するするに十分な根拠なのであった。妹にそういう要求を持ちださせたのは、むろん子供らしい反抗心と、このころの期間に不意に、幸い思いをして獲得された自負心とばかりではなかった。事実また彼女はグレーゴルが這いまわるのには空間がたっぷりなければならず、それなのにだれの目にもあきらかであるように家具はぜんぜんなんの役にもたたないということを看破していた。しかしおそらくはまたこの年ごろの娘にありがちの狂熱心も一役買っていたのであろう。そういう狂熱心はどんな機会にも自分を満足させようとし、またそういう狂熱心がいまグレーテを誘惑して、グレーゴルの境遇をいっそう悲惨なものにしよう、しかしそうすることによっていままでよりさらにいっそうグレーゴルのためにつくしてやろうという気を起こさせたのであろう。なぜならがらんとした四方の壁以外になにもないところにグレーゴルがひとりぽっちでいるような部屋へは、おそらくグレーテ以外の何人(なんぴと)もはいっていく勇気を持てないだろうからである。そういうわけであったから妹は母親の意見で翻意するようなことをしなかった」(カフカ「変身・P56~57」新潮文庫 一九五二年)

 

グレーゴルの身を両親の呼びかけから守り逸らしてやる盾として機能している。そしてグレーゴルの食事を用意し部屋へ運び込み運び出すのもグレーテの役割として定着していてもはやグレーゴルとグレーテとの関係は単なる兄妹関係を越えている。グレーゴルにとってグレーテの立ち居振る舞いは母とはまた違っている。どう見えていたか。

 

「グレーゴルはさらに少々にじりでた。そして床(ゆか)にぴったりとついてしまうほど頭を低く下げた。できることなら妹の視線をとらえようというのである。音楽にこれほど魅了されても、彼はまだ動物なのであろうか。グレーゴルは自分が憧れ(あこが)れ求める未知の滋養分への道が示されているような気がした。彼は妹のすぐそばまで進んでいってスカートの裾をくわえ、それによって自分が妹にヴァイオリンを持って向うの部屋へ来てもらいたがっているのだということをほのめかそうと決心した。ーーーおれは妹の肩のところから伸びあがって、首に接吻(せっぷん)してやるのだ。勤めに出るようになってから、妹はリボンも襟(えり)もつけずに首を丸出しにしているのだから」(カフカ「変身・P81~82」新潮文庫 一九五二年)

 

フロイト学説に従うかぎり、娘は母から父を奪い取ろうとして挫折し他家でのオイディプス三角形の再生産へ回されることになる。けれどグレーテは母の代わりに兄グレーゴルのもとへ赴くのではない。母の代理あるいはデリダ用語でいう「代補」では全然ない。あくまでグレーゴルと両親とのあいだを往還しうる《境界人/貨幣/言語》として動く。言い換えればオイディプス三角形から逸脱した《第三項》として立ち働いている。そしてカフカ作品では常連とも言うべき「女中/娼婦/姉妹」という「ずれ」た場所として存在する。

 

だからもしグレーゴルと妹グレーテとのあいだに近親相姦が成立するとすればそれはフロイトのいうパラノイア型近親相姦ではなくパラノイア型近親相姦を模擬的にでも再生産する従来のオイディプス三角形とは非-連続のスキゾフレニー型近親相姦だろうと考えられる。大事なのは《従来のオイディプス三角形とは非-連続》である点で、長男グレーゴルが「女中/娼婦/姉妹」という「ずれ」た場所としての《第三項》あるいは言語/貨幣としてのグレーテとともにその場を立ち去り別の価値体系を創設する遊牧性の獲得への疾走=既存秩序からの切断、しかし、その行方のグレーテ自らによる閉鎖という思いもよらぬ失敗を認めることであるだろう。

 

時期的な関係を見てみよう。ハプスブルグ家が没落し転倒してナチスドイツが生まれたのではなくハプスグルグ家の没落は思いがけずソ連誕生を支持する形で没落したのであってナチスドイツ誕生はソ連誕生のバックラッシュのように思えてくるのだ。そして《従来のオイディプス三角形とは非-連続》な運動の生成であることは同時に資本主義の世界化と反資本主義の世界化との対立というより、今なお未知の第三項を延々生産していく世界線を切り拓いたとも言えるだろう。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1045

2025年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Corc」

やや膨らみを持たせた太鼓に似た低音がダウンテンポでリズムを刻む。ほどなくグリッチ音が不規則でなくテンポに従って規則的かつ律儀に挿入されご飯のふりかけ的アクセントとでもいうべき風合いを醸しだしながらリズムに加わる。聴く人によりけりだろうがグリッチ音といってもだいぶん加工されていてボリュームを絞り込んだマラカスにほぼ近い。それが5:06まで続いて例によって例のごとくラスト付近で溶け去る。猫はパソコン机からひょいと窓枠に飛び移りおとなしく外の風景を眺めている。