白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ446

2025年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年一月十八日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

タマふしぎで仕方ないんだけどね、去年の終わり頃から「二代目タマ’s ライフ」を見にくる人の数がぐっと減ったように思うんだ。

 

そうだね、同じ時期にもう一つ見にくる人が減ったのがあって朝に上げてる「アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて」もそうなのさ。

 

なんか関係あるの?

 

多分ね。「アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて」は以前からやってたんだけどこれは飼い主が生涯決して治癒しない二つの精神障害(依存症と慢性鬱病)を抱えながら日々どんなふうに生きているのかという点を日記形式で具体的に記したもの。さらに一昨年くらいからは去年癌で亡くなった母を在宅介護するアルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病者で息子の飼い主の日々だけでなく母の癌の悪化とともに徐々に息子はどのように振る舞うかというありがちな物語じゃなくて実際にその日の食事内容だけでなくごく一般的な終末期治療薬の投与では癌の痛み止めと吐き気止めとの薬剤のバッティングが起きたんで微妙に違った方法を様子を見ながら具体的に日記形式で記述したものになってたよね。三点目に両方のあいだにこれも実際にあったこととして初代タマの生育記録も記録してある。初代タマが死んでしまってからは二代目タマを迎えての生育記録になるんだけど、一歳に満たないうちに手術とかあってその時のこともブログに載せた。

 

そうだね。聞いたよ。

 

でもそういうのって情報としての価値ってのがある。具体的であればあるほど定点観測みたいな記録としてこっそり入手したがる人々は多いのさ。SNS時代だと極めて便利に手に入る。消費者の側がわざわざお金を払って手に入れないといけないシステムは全然変わっていないんだけど、ブログを見てる人々の側からだとタダで手に入るから特に大手マス-コミとかだと黙って見に来てひと言の断りもいれずにささっとマーケティングしてデータバンク化して手前勝手に利用して平気のへいさなのさ。

 

でも見にくる人がえらく減ったのは何でなのかな。「アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて」も「二代目タマ’s ライフ」もすごく減った。

 

ほぼ同時期にぐっと減っただろう。前者は音楽主体じゃなくて飼い主の実際の日常を、後者は飼い猫の実際の日常を、それと並行してアルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病者がその母の終末期医療を在宅介護でどんなふうに看取るのかそれとも本当に看取るところまでいけるのか行けるとすればどのようにしてかと、一般的な専門書を何冊見てもほとんど書いていない結構レアケースとして記録したかったからそうしたわけ。

 

うんうん。

 

で一段落して「アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて」はタマとの交流といってもおもちゃとか色々考えてその反応を記録することよりも、もっと大きく誤解されている猫と音楽との関係だね、猫は高音を好むからモーツァルトを聴かせるのがいいというとんでもないデマ情報が拡散してるからそんなの猫それぞれで全然違う、電子音楽の場合も飼い主と一緒に聴くようにすればこんなふうに慣れてくるというふうなコンセプトでしばらくやってみることにした。すると見にくる人がぐっと減ったのさ。

 

「二代目タマ’s ライフ」はなんで減ったの?

 

生活様式を具体的に書いてただろ?体を壊した場合はどんなふうに対応したか、どんなにすれば二代目タマの場合は良くなったか、動物病院の看護師さんでもないのにふつうはなかなか手に入りにくいちょっと特異な性質を持つタマの生活を日々綴ってきた。紙飛行機もいろいろ工夫して紹介したりもした。でもそれってどの猫には当てはまるわけじゃないから変な意味で「希少価値」が付いてくるのさ。それを見て良識的に参照してくれる人たちってほんとに数えるほどもいない世界だからね。その昔「日本の黒い霧」って本があったけど。今やもうそんな倫理価値自体が崩壊してどこを見ても荒涼たる景色だらけで殺伐としてる。精神障害者のひとりとしては一日々々がたまらなく苦しいわけ。マス-コミは今なお自覚できてないね。ほとんどできてない。わかってないわけないのにわかってないに等しい。もはやマス-コミが身体障害者や精神障害者に向けて逆に圧力をかける側に回ってるとしか思えない。ともすれば今なお「感動ポルノ」や「美談」作りで儲けてやろうぜって空気で充満してる。そこでそろそろ二代目タマと日本語コミュニケーションする形で時間を決めてどこにでもありそうな会話形式に変えた。

 

うん。タマの発言が増えてうれしいや。

 

で、その同じ時期にね、「アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて」と「二代目タマ’s ライフ」とのどちらもUPするやすぐさまこれまではほぼ必ず10PV上がってたわけだけど口裏合わせでもしたかのように年末くらいからめっきり来なくなった。昼間にもリハビリは当然大事だからいろいろ工夫して関心のあるトピックを雑誌で見かけるとそれに感想程度の文章を付けてUPしてただろ?あれもこれまではほぼ必ず瞬時に10PV上がってた。けど口裏合わせでもしたかのように年末くらいからめっきり来なくなった。

 

なんで?

 

飼い主のほうが説明してほしいね。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ドゥーチー。ヒップホップと言ってしまうのは簡単だろう。では困難なのか。そういうことでもまたない。あちこちでヒップホップを見かけるようになると今度はその初期から発展期の頃に何があったのかをともすれば忘れてしまっていることがある。アンビエントが当たり前のようにメジャー化するとそのモドキのほうが一般受けして広く流通するという転倒が起きるように。だからといって転倒してしまったものを再転倒させればいいというわけでもないと思わせてくれる。

 


Blog21・ロヒンギャ難民/国軍/<当局からにらまれる>

2025年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

連載最終回。日々情勢がころころ変わらない紛争地帯というのは世界のどこにもないのだろう。逆にいえば日々情勢がほとんど変わらなければそこは差し当たり紛争地帯ではないか紛争地帯と呼ばれていないに過ぎないということなのかもしれない。

 

ロヒンギャ難民キャンプで三人の演奏家の歌を聴く機会を得たいとうせいこうはこう書いている。

 

「短く歌い終え、再び俺の拍手を受けて、老婆は嘆くような表情で頭を下げた。俺も心をこめてそうした。後ろ髪引かれる思いで出口に向かう俺に、施設の男性がこう言った。

 

『二〇一八年から二〇二〇年にかけての調査で、ロヒンギャ難民の半分がアイデンティティの危機を訴えました。だから我々はこのプロジェクトを始めたんです。ロヒンギャのメンタルヘルスのために』

 

つまりどうにかしなければという切迫した思いで、彼らは急いでそれを始めたのだった。いい加減なお役所仕事ではない。なんとかしたいが、限りある予算の中ではとれる方法も少ない。だが、さっきの歌はもっと多くのロヒンギャの前で披露してもらいたいと思った。大人数が集まることは避けられてしまうのだろうが、心の穴は確実に埋められる。それが音楽の力であり、言葉の効用だ。

 

故郷を失うことはロヒンギャに限らず誰にでもある。だからこそ私たちは彼ら故郷喪失者の日々の憂いに共感出来るのではないか」(いとうせいこう「<国境なき医師団>をそれでも見に行く 戦争とバングラデシュ編(最終回)」『群像・2・P.74』講談社 二〇二五年)

 

それはその通りだろうと思う。読んでいて去年までと違うところがいつになくやけに引っかかった。

 

「大人数が集まることは避けられてしまうのだろうが」

 

どうしてかというと、おそらく<当局からにらまれる>からだ。<大人数が集まる>と。

 

バングラデシュに限らず日本でもずっとそうだった。少なくともいとうせいこうの世代なら知っているように去年ノーベル文学賞を受賞したハン・ガン「少年が来る」(クオン)や「別れを告げない」(白水社)を通して、またしても逃れられそうにない事態の中で決められるはずのない選択を迫られつつあると感じたのは、もっとも今の韓国は政治政党間の政治的取引あるいは駆け引きの様相を呈してしまっているとしても日本自体はどうなのか、日本統治時代から多くの在日韓国朝鮮人が暮らす日本は戦後ずいぶん時間が経過したあとの一九八四年唐突に勃発した全斗煥軍事政権の時も今回の尹大統領逮捕についても、戦前からの大きな爪痕が今なお癒やされず極彩色に爛れた膿を垂れ流しながら呻き声を上げ続けている日本軍占領時代の血の遺産に見えて仕方がない。

 

「アントニーも最後に強調したように、ミャンマーにとってもバングラデシュにとっても、日本の支援がとても大きい。企業の進出も目立っている。ひとつ何かの情勢変化があれば、私たち日本が彼ら難民を受け入れるべきだという世界の主張だって起こり得る。そもそも第二次世界大戦において日本は旧ミャンマー、つまりビルマの独立を支援するような形で暗躍したが、結果全土で日本の支配への抵抗運動が起こった。あくまでその支配に対する賠償としてのミャンマーへの、現在に続く資金援助が考えられる以上、日本人にとってメガキャンプの問題はまったく他人事ではないのだ。もう一度言う。ロヒンギャの苦難、ミャンマー国軍の暴力はまったく他人事ではない。それどころか、私たちが現在の混迷の根源に関与している可能性さえある」(いとうせいこう「<国境なき医師団>をそれでも見に行く 戦争とバングラデシュ編(最終回)」『群像・2・P.76~77』講談社 二〇二五年)

 

日本は無関係ではあり得ない。そしてさらに今の日本国民の多くが打ち続く物価高に喘いでいる。何を取って何を捨てるかといった単純な話ではさらさらない。どれもこれも政府が責任を半ば放棄した形で何十年も棚上げしてきた問題のひとつひとつである。畏れ多くも政治政党を名乗りたいというのならひとつくらいしっかり片付けるところから始めてほしい。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1040

2025年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Rae」

猫がすっかり慣れてしまったので今度はオウテカはオウテカでも別の曲を順次聴かせているところ。始めのうちは色んな音響が繰り出されてきてその都度珍しげな反応を示していた。けれども飼い主が一緒にいるとだんだん慣れてしまい飼い主の聴く音楽=オウテカ(あるいはエクスペリメンタル)と反射的に覚えこんでしまった様子。猫もてっきりそのつもりで飼い主の部屋にちょこちょこ入ってくるようになった。それでリラックスしてくれるのはありがたいのだけれどオウテカを聴いて始めてこれまでに見せなかった反応を示したことで、猫にももっと他に新しい音体験の発見があるのかも知れないと思いながら今日の「Rae」を聴かせている。音が鳴っているあいだじゅうこれまで通り窓枠に飛び移り外の景色を眺める。3:02辺りからリズムが徐々に崩れていく。オウテカにしてはなだらかな崩壊感なので普段は電子音楽に親しみのないリスナーも案外リラックス効果を得られるかも知れない。