3.11から十年が過ぎ十一年目に入った頃。「3.11を忘れない」イベントが全国各地からひとつひとつ消えていく光景を見てきたに違いない。やりきれない気持ちで、さらに早く忘れ去ってしまいたい気持ち、あるいはどんどん忘れ去られていってしまい孤立無縁になったらどうしようという悶えを抱きながら。そのあいだ日本政府は何一つしていなかったかといえばそうではないのだがやることに違和感を覚えた人々も実は少なくない。
連載3回目。川内有緒は「おれたちの伝承館」館長・中筋純の言葉を伝えている。
「中筋 一応次の災害時は自衛隊の資材置き場や緊急避難場所として利用しますっていう名目なわけ。でもさ、あそこの校舎の二階って、ばーっとあたりを見渡せるようになっててさ、世界中の人が来て、津波と避難、原発事故について学ぶことができる場所なわけ。ここでこれだけの人が亡くなったということに対してお祈りをする場所なんだよ。その横でゴルフをやってる人たちがいるって、どうなの?」(川内有緒+一ノ瀬ちひろ「ロッコク・キッチン(3)」『群像・2・P.279』講談社 二〇二五年)
校舎というのは震災遺構として保存されることになった請戸小学校。いっときはメジャーなテレビでも地震につづき津波が押し寄せ、原発事故、児童生徒らの避難、その後の風景の変遷などを請戸小学校校舎二階から語り聞きながら記憶に刻み込んでいる海外からの視察団らの映像が流れていたものだった。今はどうか。中筋純が首を傾げたくなるように、何もゴルフするなと言っているわけではなく、なんでそうなの?と巨大な疑問符がいきなり空一面に浮かび上がるようなことをしばしば政府は推し進める。
読者にはそれぞれの読者なりに何がしかの意味を見出さないわけにはいかない。反論ばかりかそもそもそんな連載自体もうやめてしまえという読者もいる。逆に全然足りない、ほとんど何一つ言っていないに等しい、もっと原発反対運動を取り上げるべきだという読者もいる。公共的な意味合いを持つ出版物というのはそういうものだ。読者のひとりとして周囲にも様々な意見があるわけだが、事故から五年はまだ生々しさがあったけれども十年を過ぎると、ふだん、まったくに近いほど聞かれなくなった。そんなふうに3:11が忘れられようとしているタイミング(二〇二四年十月号)でこの連載は始まっている。
川内有緒は毎回文章で一ノ瀬ちひろは写真で読者の手に何かを送り届ける。川内が暮らすのは東京都新宿の近く。そしていう。
「私の家から近い新宿では、東京都が巨額の費用を投入しプロジェクション・マッピングを投影している。そのギラギラした光を見るたびに思う。東京に電力を送るための発電所であれだけの事故があり、たったの十三年。いくらなんでも、これはないんじゃないか?」(川内有緒+一ノ瀬ちひろ「ロッコク・キッチン(3)」『群像・2・P.280』講談社 二〇二五年)
今回は歌の引用がある。ひとりの歌人の歌集からの引用なので3:11以後を詠んだものだけでなく3:11以前を詠んだものも当然ある。前と後では紀元前と紀元後くらいの違いがある気がしてくる。
「言えない苦しみ、語られない言葉」、と川内有緒は書く。
たぶん日本のマス-コミがどれほど多くの言葉を引っ張ってきてもなお「言えない苦しみ、語られない言葉」を掬い上げることはできない。もっと掬い上げろというわけではなくて、掬い上げれば掬い上げるほど「言えない苦しみ、語られない言葉」もまた同時に増えていくからである。だったらもうやめろという単純な話でもない。
個人的なことを言えば、知人の知人にひとりの神社関係者がいる。来る日も来る日も祝い事をこなしていくのが仕事だ。その神社関係者は3:11で肉親を失っていて遺体は十年以上を経た今も海に流されたまま不明だとのこと。ついこの前に原発推進の方向を明確に打ち出した今の日本政府だが日本のなかで神社というものがどういう機能を受け持っているかを考えると東京よりももっと遠いところで暮らしているにもかかわらず「言えない苦しみ、語られない言葉」をどう取り扱えばよいのか。唖然茫然というほかない。
さらに神社関係者とは別に、ごくふつうの労働者として、しかし高齢化ゆえこれといった仕事がなく福島県へ行って除染作業で食べている友人がいる。事故以来増えることはあっても減ることのない数々の問い。落としどころのあまりの無さに、ともすれば「悶え」悪夢にうなされて汗びっしょりで目を醒ます真夜中がますます鬱病を悪化させていっている気がしてこないわけにはいかない。