白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ448

2025年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年一月二十日(月)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

今朝目を開けるとお気に入りのぬいぐるみが真ん前に置いてあったよ。これで遊んでって合図。昨日言ったけどタマは薄明薄暮性ってタイプなんだね。かなり冷える朝でも未明頃には起き出して鉛筆や定規を転がしてるとこ見てるからてっきり夜行性かと思ってた。ちょっと違うみたいだ。もう少し朝型寄りだね。

 

そんなもんですか。どうでもよさそうな話だけど。でも真冬になって気がついてはいたし不思議には感じてたよ。一番冷え込む時間帯になんで走り回りたくなるんだろうって、タマ自身としても。

 

ちなみにトイレハイと言ってトイレした後に部屋中をぐるぐる走り回ったり勢いに乗ると二階まで駆け上がったりする猫さんも割合いるらしいよ。初代タマはトイレ後じゃなくてトイレ前にあちこち駆け回った後にどさっとトイレに入って新聞紙の微塵切りで代用してる猫砂を掻き回してその上にウンチしてた。二代目タマはトイレする前に走らないけどした後にも走るとは必ずしも限らないね。トイレハイなタイプとは違うようだ。でも臭いは気になるのかな?

 

そうなんだ。

 

わかるよ。ウンチにしてもオシッコにしても夜昼問わずトイレの後はがさごそがさごそと飼い主が掃除しに来るまで長々と大きな音立ててるもんね。

 

だって天敵に見つかったら怖いじゃん。

 

どこに天敵がいるっての。二代目タマは元野良だけど生まれて早くに保護されたから野生の生活なんて知るわけないんだけどなあ。

 

じゃあ本能って言うんじゃない?

 

てことは薄明薄暮性もタマ固有の本能とか習性なのかな。

 

タマ固有だとしてもさ、タマっていう固有種がいるわけじゃないからね。

 

あはは、よく理解できてるね。

 

そりゃタマだもん。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ドゥーチー。ヒップホップと言ってしまうのは簡単だろう。では困難なのか。そういうことでもまたない。あちこちでヒップホップを見かけるようになると今度はその初期から発展期の頃に何があったのかをともすれば忘れてしまっていることがある。アンビエントが当たり前のようにメジャー化するとそのモドキのほうが一般受けして広く流通するという転倒が起きるように。だからといって転倒してしまったものを再転倒させればいいというわけでもないと思わせてくれる。


Blog21・詩とメディア性

2025年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

谷川俊太郎の訃報に接した人々がSNSで「詩をつぶやき始めた」。石井ゆかりは「詩文」あるいは「詩に備わるメディア性」についてこう述べる。

 

「詩人の訃報に接して思わず詩を呟いた人々の多くは、自分の中にその詩が刻まれている、ということに普段は気づかずにいたのではないか。リズムや音楽は私たちの中に入り込んで、私たちに乗って、別の場へ、別の時間へ運ばれていく」(石井ゆかり「星占い的思考(59)」『群像・2・P.425』講談社 二〇二五年)

 

詩や小説や言葉の「美」を意図的に「美化」している述べているわけではまるでない。それらはいずれも同様の地平に晒される。

 

「美しいもの」や「心地よいもの」が不可避的に持つ「メディア性」。その同じSNSで誹謗中傷の暴風雨が吹き荒れているのはなぜか。SNSだから、では済まない。そうではなくどんな内容の誹謗中傷であろうとそれを「心地よい、美しい」と思う人々は自覚的か無自覚かを問わず後を絶たない。「心地よく乗れる-罵詈雑言」にほいほい乗って行って結果的に無実の人間を殺したか少なくとも間接的に「殺し」や「いじめ自殺」に加担した経験を持たない人間が今の日本にどれだけいるか。その「美しい-言葉遣い」がある種の文脈へすり換えられSNSで拡散された瞬間、死ぬほど追い詰められるか実際に死んでしまうかしてきた日本在住者がどれほどの数にのぼるか、誰にわかるというのか。「詩」的な言葉が発揮する両義性は恐るべきものだ。

 

谷川俊太郎死去の報に接してそのような「メディア性」を放つ「逆効果」が日本列島を覆い尽くさなかったことのほうに安堵を覚える。

 

「詩だからこそ、そうなる。人々の心に広がり、留まり、さらにその先の世代に復唱されていく可能性となる。小鳥たちが果樹の種子を運ぶように、心から心へ、口から口へ、詩が運ばれていく。言葉に翼がついている」(石井ゆかり「星占い的思考(59)」『群像・2・P.425』講談社 二〇二五年)

 

こんなふうに来る日も来る日も噛み締めない日はないと思うのだが、去年の夏くらいからなんだか調子がいまひとつではあるのだ。

 

もっとも、石井ゆかりは文学作品の一節を取っかかり的に引用しつつ星占いとその都度の流行や時事問題とを関連づけていくのが持ち味。一方読者のひとりとして宇宙のどれもこれも全部物質から出来ているかその諸複合や諸現象であるという身も蓋もない唯物論者(史的唯物論とは別もの)であり占星術自体を関心の中心に置いてはいない。けれども石井ゆかりのいうことは毎号目を通しているがところどころ頷けるし理解もできるのである。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1042

2025年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Vose In」

猫が好む特徴的な金属加工音やゴロゴロ音は出てこないが人間が作業用に聴く限りは案外快適におもうリスナーもいそうな音作り。リズムがミドルテンポで取っ付きやすい。ところが3:30分付近でたちまちリズムは消滅し電子音だけが浮遊する。あとは様々な効果音が多彩に打音される。この効果音の幾つかに猫は不思議そうな反応を見せる。水辺で耳にするような両生類っぽいグルルル音。一度部屋を出て居間からぬいぐるみを持ってくる。遊べというのだろう。この種の音にはいまでも結構反応を示す。音楽自体は電子音なので自然界で当たり前に聴ける音ではないのだが近い感じの類似音には実際に屋外で聴く音とは違うと感じつつ今ひとつ判別のつかなさそうなところに独特の違和感を示すのかもしれない。三回リピートしてみる。すると三度目はまだリズムが消滅する前から窓枠にひょいと飛び移り外の景色をゆっくり眺めている。