二〇二五年一月二十六日(日)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
タマさん、明るい歌探してきたよ。
本当かな。
テーマが春ならほとんど明るい。一昨日は寒そうなのばっかりだったけどタマが誤解したままだったら困ると思ってね。
じゃあいっぺん聞かせてくれる?西行さんの歌。
西行?
だって一昨日はほとんど西行さんだったよ。
西行の歌ってのは、う~ん、もっともテーマ別に言えばそりゃ春の歌なんだけれど。
何か後ろ暗いとことか、あんの?
そうじゃなくて西行の歌ってのは春を詠えば詠い込むほど実はかえって暗かったりする。例えばこう。
「花に染(そ)む心のいかで残りけん捨て果ててきと思ふわが身に/西行」(「山家集・春・P.28」『新潮日本古典集成 山家集』新潮社 一九八二年)
なんのこと?
年齢性別国籍問わずだね今では。一度「花」への執着心を捨てきれなくなった心ってのはなぜ今もこの身に残ったまま立ち去ってくれないのか、厄介なものだと。誰でもいいんだけど一度愛した相手イコール「花」と置き換えて読むと実にわかりやすい。もし愛の深さゆえ嫌われてしまった挙句に相手を殺してしまい刑務所へ収監されたとしてごらんよ。それでもなお殺してしまった相手に向けられた恋情はありありと手に取るように残ってしまうってことさ。千倍にも増幅した罪悪感とともにね。
そんな歌なの?
かもね。こんなのもあるよ。
「願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月(もちづき)の頃/西行」(「山家集・春・P.29」『新潮日本古典集成 山家集』新潮社 一九八二年)」
タマも知ってる有名な歌だ。
なんだけど、飼い主は別の読みに気づいてからこっち、頭から離れなくなった。西行の死体の上からはらはらと桜の花が舞い散って埋めてしまう。で西行の望みをかなえてやった身近な人が西行の死体をもう一度弔ってやろうと花で埋まったその肩あたりに手をかけるとぽろっと花の断片だけが崩れるように落ちる。場所を変えて別の花の断片を取り上げようとするとこれまた花の断片だけがころっと地面に落下(落花)する。慌てて花の全部取り除いてみたところ西行は骨ひとつ残さず消え失せてたって形で死んでいきたいと。
それじゃまるでホラーだね。
西行の花の歌は体からふわふわ抜け出てく心というか魂というか、そういうものの行方と切り離して考えられない。容易に解きほぐすのははばかられるところがあるのさ。
単純に他人を寄せ付けないってこと?
そんなところかな。「わきて見ん」の五文字で始まるこういうのはさらに深い。
「わきて見ん老木(おいき)は花もあはれなり今いくたびか春にあふべき/西行」(「山家集・春・P.33」『新潮日本古典集成 山家集』新潮社 一九八二年)」
西行さんも老いてるわけなのかな。
それはある。だけど今言ったように「わきて見ん」ってところでいきなり読み手の態度が問われてる。
どういうことかな。
とりわけ格段の心を注力してみようと、そんな呼び声から始まってる。桜の花に「とりわけ格段の心を注力してみよう」だよ。単純にお花見してる場合かって、どやされてる気持ちになるよね。心して読んでほしいって鼻から読者に向けて挑戦してるのさ。
言われてみればそうかもしんない。怖い人だったの?
自分に厳しい人だったとは思うね。で「花」は「花」なんだけど幻想的なところはなくて結構シビアなリアリストでもあったろうとおもう。桜も西行自身もいわば「老木」でもう数えるほどしか後がない。むしろ数えるに値するくらい何年も生きられないだろうと。そこに西行は自身の死に対する切実で現実的な覚悟性を見ないわけにはいかないのさ。
う~ん、なんてのか抜き差しならない歌なんだね。春が来た春が来たわ~い、ってそんな単純な話じゃないってことかあ。
でもまあ現代的な問題との繋がりってのがにわかに出てきた。西行の歌がたくさん収録されてる勅撰和歌集があるんだけどね、時の天皇の歌もけっこう多く取り上げられてる。三つ上げてみよう。
「み吉野(よしの)の高嶺(たかね)の桜ちりにけりあらしも白(しろ)き春のあけぼの/後鳥羽院」(「新古今和歌集・春歌下・P.55」『新日本古典文学体系 新古今和歌集』岩波書店 一九九二年)
「今日(けふ)だにも庭をさかりとうつる花きえずはありとも雪かともみよ/後鳥羽院」(「新古今和歌集・春歌下・P.56」『新日本古典文学体系 新古今和歌集』岩波書店 一九九二年)
「いかんせん世(よ)にふるながめ柴(しば)の戸(と)にうつろふ花の春の暮(く)れがた/後鳥羽院」(「新古今和歌集・春歌下・P.59」『新日本古典文学体系 新古今和歌集』岩波書店 一九九二年)
これほど「花=桜」が詠まれてきた歴史が日本にあるにもかかわらず「桜を見る会」問題の謎はなぜ全貌があいまいなままなのかって。
タマもおちおちテレビニュースばかり見てちゃわかんなくなっちゃうってことなのかなあ。なんだか人間不信に陥ってしまいそう。
黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ドゥーチー。ヒップホップと言ってしまうのは簡単だろう。では困難なのか。そういうことでもまたない。あちこちでヒップホップを見かけるようになると今度はその初期から発展期の頃に何があったのかをともすれば忘れてしまっていることがある。アンビエントが当たり前のようにメジャー化するとそのモドキのほうが一般受けして広く流通するという転倒が起きるように。だからといって転倒してしまったものを再転倒させればいいというわけでもないと思わせてくれる。