二〇二五年一月二十五日(土)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
じゃあ飼い主。タマは?タマって名前はどこから付けたの?昨日みたいに寒い話なのかな。
あはは、いろいろあるんだけどひとつひとつ上げてたらきりがないから一説だけ教えてあげよう。
最近ね、猫さん犬さんにも凝った名前が多いのにどうしてタマはこんなにシンプルなのかなあと思ってたんだけど実際のところ理由はあるんだ。
そうだね。
で、どんなの?
飼い主の実家の裏に接して建仁寺ってお寺さんがある。今や外国人観光客が長い列をなしてる。英語・中国語・ハングル、フランス語、東南アジア諸国語も時々聞こえる。でも飼い主が育った当時はごくたまに英語を話す人をちらって見かける程度でね、日本中で子供が多い時代だったから公園が少なくて。子育て中のお母さんが幼児を連れて休憩できる場所の確保や小学生が放課後をへんてこな持て余し方で潰してしまわないために境内も開放されてて毎日のように広い境内で遊びまわってたんだ。飼い主にしたら石畳や庭の様式で好みのものはほとんど子供時代にそこで身に付けたものがベースになってるのかもしれない。全然違ってるようなイメージを抱かれがちなんだけどヨーロッパ由来のモダン建築・ポストモダン建築を見る際の基準のひとつにもなってる。JR京都駅とか東京都庁舎を見るときも子供の頃にさんざん遊び回った庭や石や池の配置、石畳の敷き方や機能性とかは細部で共鳴し合いながら部分的に重なって見えるよね。
むむ、何だかいきなり混乱しそう。
それはそれとして建仁寺の塔頭のひとつに正伝永源院てのがある。地元の人々は「しょうでんさん」って気軽に呼んでるよ。で大昔に焼失したそこの客殿を再興したのが細川忠興って人。忠興の妻は明智光秀の娘で名前を玉(たま)といった。
たま、さん?
そう。
細川忠興とたまが結婚した場所が勝龍寺城ってお城でね、今の京都府長岡京市にある。飼い主と飼い主の妻が結婚して最初に住んだのも実は長岡京市で勝龍寺城の近くなのさ。勝龍寺城もその頃すでに勝龍寺城公園という公園として整備されてて休日なんかにぶらぶら散歩しに行った。たまはね、キリスト教の教えに感銘を受けてガラシャに改名したんだけど当時はもう戦国時代末期であちこち火の海だった。最後は自爆。自宅に火を放って壮烈な死を選んでる。でね、たまのお墓があるんだけどそれというのが飼い主が大学在学中だった頃に大阪で下宿生活してた東淀川区でね。崇禅寺ってお寺さん。
それも偶然、たまたま重なっただけなのかぁ。そういうことなんかも考えに入れて飼い猫の名前をタマにしたの?
いやいやそんなことはないよ。まさか将来滋賀県に引っ越して保護猫を引き取って飼うことになるなんて想像もしてなかったし。いま思い返せばなんと色んな偶然が重り合ったもんだなと。
ふ~ん。飼い主の人生って思いもよらない偶然ばかり繋げてたらこうなったって感じなんだね。
かもね。ちなみのたまの夫の細川忠興の父は細川幽斉。歌人で有名。こんな歌がある。
「降(ふり)染(そ)めし去年(こぞ)の高根にほのぼのとまだ消(きえ)のこる雪を見るかな/細川幽斎」(「玄旨百首」『新日本古典文学体系・中世和歌集室町編・P.473』岩波書店 一九九〇年)
タマわかった。窓から見えたりテレビ見てたら高いお山の山頂付近じゃ春が近いとかいっても雪化粧が残ってたりするもんね。
黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ドゥーチー。ヒップホップと言ってしまうのは簡単だろう。では困難なのか。そういうことでもまたない。あちこちでヒップホップを見かけるようになると今度はその初期から発展期の頃に何があったのかをともすれば忘れてしまっていることがある。アンビエントが当たり前のようにメジャー化するとそのモドキのほうが一般受けして広く流通するという転倒が起きるように。だからといって転倒してしまったものを再転倒させればいいというわけでもないと思わせてくれる。