白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ453

2025年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年一月二十五日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

じゃあ飼い主。タマは?タマって名前はどこから付けたの?昨日みたいに寒い話なのかな。

 

あはは、いろいろあるんだけどひとつひとつ上げてたらきりがないから一説だけ教えてあげよう。

 

最近ね、猫さん犬さんにも凝った名前が多いのにどうしてタマはこんなにシンプルなのかなあと思ってたんだけど実際のところ理由はあるんだ。

 

そうだね。

 

で、どんなの?

 

飼い主の実家の裏に接して建仁寺ってお寺さんがある。今や外国人観光客が長い列をなしてる。英語・中国語・ハングル、フランス語、東南アジア諸国語も時々聞こえる。でも飼い主が育った当時はごくたまに英語を話す人をちらって見かける程度でね、日本中で子供が多い時代だったから公園が少なくて。子育て中のお母さんが幼児を連れて休憩できる場所の確保や小学生が放課後をへんてこな持て余し方で潰してしまわないために境内も開放されてて毎日のように広い境内で遊びまわってたんだ。飼い主にしたら石畳や庭の様式で好みのものはほとんど子供時代にそこで身に付けたものがベースになってるのかもしれない。全然違ってるようなイメージを抱かれがちなんだけどヨーロッパ由来のモダン建築・ポストモダン建築を見る際の基準のひとつにもなってる。JR京都駅とか東京都庁舎を見るときも子供の頃にさんざん遊び回った庭や石や池の配置、石畳の敷き方や機能性とかは細部で共鳴し合いながら部分的に重なって見えるよね。

 

むむ、何だかいきなり混乱しそう。

 

それはそれとして建仁寺の塔頭のひとつに正伝永源院てのがある。地元の人々は「しょうでんさん」って気軽に呼んでるよ。で大昔に焼失したそこの客殿を再興したのが細川忠興って人。忠興の妻は明智光秀の娘で名前を玉(たま)といった。

 

たま、さん?

 

そう。

 

細川忠興とたまが結婚した場所が勝龍寺城ってお城でね、今の京都府長岡京市にある。飼い主と飼い主の妻が結婚して最初に住んだのも実は長岡京市で勝龍寺城の近くなのさ。勝龍寺城もその頃すでに勝龍寺城公園という公園として整備されてて休日なんかにぶらぶら散歩しに行った。たまはね、キリスト教の教えに感銘を受けてガラシャに改名したんだけど当時はもう戦国時代末期であちこち火の海だった。最後は自爆。自宅に火を放って壮烈な死を選んでる。でね、たまのお墓があるんだけどそれというのが飼い主が大学在学中だった頃に大阪で下宿生活してた東淀川区でね。崇禅寺ってお寺さん。

 

それも偶然、たまたま重なっただけなのかぁ。そういうことなんかも考えに入れて飼い猫の名前をタマにしたの?

 

いやいやそんなことはないよ。まさか将来滋賀県に引っ越して保護猫を引き取って飼うことになるなんて想像もしてなかったし。いま思い返せばなんと色んな偶然が重り合ったもんだなと。

 

ふ~ん。飼い主の人生って思いもよらない偶然ばかり繋げてたらこうなったって感じなんだね。

 

かもね。ちなみのたまの夫の細川忠興の父は細川幽斉。歌人で有名。こんな歌がある。

 

「降(ふり)染(そ)めし去年(こぞ)の高根にほのぼのとまだ消(きえ)のこる雪を見るかな/細川幽斎」(「玄旨百首」『新日本古典文学体系・中世和歌集室町編・P.473』岩波書店 一九九〇年)

 

タマわかった。窓から見えたりテレビ見てたら高いお山の山頂付近じゃ春が近いとかいっても雪化粧が残ってたりするもんね。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ドゥーチー。ヒップホップと言ってしまうのは簡単だろう。では困難なのか。そういうことでもまたない。あちこちでヒップホップを見かけるようになると今度はその初期から発展期の頃に何があったのかをともすれば忘れてしまっていることがある。アンビエントが当たり前のようにメジャー化するとそのモドキのほうが一般受けして広く流通するという転倒が起きるように。だからといって転倒してしまったものを再転倒させればいいというわけでもないと思わせてくれる。

 


Blog21・ライプニッツ/襞/フーコー的バロック

2025年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

ライプニッツはいう。

 

「もし各々の魂〔能動的な力〕の襞(ひだ)をすべて拡げることができるとすれば、その魂〔能動的な力〕のなかに宇宙の美を認めることができるであろうが、その襞は、時間の経過によってしか人が感知できるほどには展開しない。しかし、魂〔能動的な力〕の判明な表象はどれも、宇宙全体を包蔵する無数の混乱した表象を含んでいるので、判明で際立った表象をもつかぎりでしか、魂〔能動的な力〕自身は自らが表象している事物を認識していない。だから魂〔能動的な力〕は、自らのもつ表象の判明さの程度に応じた完全性をもつのである。各々の魂〔能動的な力〕は無限を認識し、すべてを認識しているが、混乱した仕方で認識している。それはちょうど、海岸を散歩して海の立てる大きな音を聞いているとき、私は、音全体を構成しているそれぞれの波の個々の音を聞いていながら、聞き分けてはいないようなものだ」(ライプニッツ「理性に基づく自然と恩寵の原理」『モナドロジー・P.89』岩波文庫 二〇一九年)

 

「襞(ひだ)」についての短い文章なのだが面白い点がある。

 

「判明で際立った表象をもつかぎりでしか、魂〔能動的な力〕自身は自らが表象している事物を認識していない」

 

「海岸を散歩して海の立てる大きな音を聞いているとき、私は、音全体を構成しているそれぞれの波の個々の音を聞いていながら、聞き分けてはいないようなものだ」

 

例えばバロック建築のような壮麗な襞に出会っていたとしても人間は人間が「触れている」個々の襞の特徴的な部分しか認識できない。

 

このイメージはプルースト「失われた時」に出てくるシャルリュスを思い起こさせる。シャルリュスは同性愛者だがほんの一部を除く見ず知らずの他人には全然ばれていないと勘違いしている。しかし話者は知っている。話者だから知っているというわけではなく次のような次第で知っている。二箇所。

 

(1)「氏の声そのものが、このような微妙な考えを表明するときには高音となり、中音域を充分に鍛えていないために青年と女が交互に歌う二重唱のように聞こえるコントラルトの声に似て、許嫁(いいなづけ)の娘たちや修道女たちの合唱隊を内にふくむ意外なやさしさを帯びるがゆえの愛情がにじみ出るように思われた。とはいえ自分の声のなかにこんなふうに若い娘の一団を宿していると聞こえることは、あらゆる女性化に怖じけづくシャルリュス氏にとっては、どんなに遺憾なことだったであろう。しかもこの娘たちの一団は、感情にまつわる曲目を演奏したり転調したりするときにあらわれるだけではない。シャルリュス氏が話しているあいだ頻繁に聞こえてくるのは、寄宿舎の女生徒やコケットな娘の一団の甲高(かんだか)く無邪気な笑いで、それが悪意にみちた歯に衣(きぬ)着せぬ抜け目のないもの言いによって、そばにいる氏の声を調整してしまうのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.271」岩波文庫 二〇一二年)

 

(2)「それは氏独特の笑いであった。それはおそらくバイエルンなりロレーヌなりの祖母から受け継いだ笑いで、その祖母も同じ祖先の女性から受け継いでいたので、ヨーロッパのあちこちの古い小宮廷では何世紀にもわたり変わらぬ笑い声が同じように響いて、人びとはその声の貴重な特徴を、めったにお目にかかれないある種の古楽器の特徴のように味わうことができたはずである。ある人物の全体像を余すところなく描くには、そのすがたの描写に加えて声の模写が必要になるはずで、この繊細にして軽やかな小さな笑い声を欠いてはシャルリュス氏という人物の描写は不完全になりかねない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.213」岩波文庫 二〇一五年)

 

しかし読者の多くはいうだろう。なぜならそう書いている人物がほかならぬ「失われた時を求めて」の話者であり要するに作者なのだからと。創作上の暗黙の決まりだろうと。

 

しかし本当にそうだろうか。プルーストは創作上の暗黙の決まりを解体することを目指しているというのに。なるほどシャルリュスを登場させないこともできた立場ではある。しかし同性愛者としてのシャルリュスを登場させるに当たって同性愛者のほんのごく一部の特徴を書き込むことしかできないことも知っていた。それがシャルリュスに関するこの二点だ。

 

ライプニッツに戻ろう。

 

「魂〔能動的な力〕は、自分自身のなかには、そこに判明に表現されていることしか読み取ることができない。魂〔能動的な力〕は自分の襞(ひだ)を一挙にすっかり展開することはできない。その襞は無限に及んでいるからだ」(ライプニッツ「モナドロジー・P.55」岩波文庫 二〇一九年)

 

確か「壮麗な襞としてのバロック」ということをドゥルーズは言っていたが、ドゥルーズではなく「フーコーの文体」を指して「バロック的」だと言っていた批評家もいた。フーコーの誕生はフーコーの誕生日のことをいうのではないことと同じく、その独特の「文体」の流通によって世界各地に新しい欲望が生産された瞬間を指すに違いない。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1047

2025年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Arch Carrier」

 

0:19からゴロゴロ音とグルルル音とをミックスさせたような音が入ってくる。猫好みだがさほど大きくない。金属加工音は強烈なものではなくシンプルで飾り気のないリズミカルなもの。そのストイックさが猫の好みとはまた違っている。曲は一貫してミドルテンポ。人間にとっては聴きやすいかも知れない。3:46からメロディが消えるがそのほうが往年のオウテカ風味ではある。メロディ消失以降はコード変化以外に雰囲気の劇的変容はない。メロディに換わって一九八〇年代のゲームセンターのような懐かしい音が控えめに入っている。特に猫の関心を引く程度には至らない。全体で6:50分ということもあり人間の作業用BGMのひとつに分類されていてもおかしくないような曲調。