二〇二五年一月三十一日(金)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
前に飼い主言ってたけどゴダール映画「勝手にしやがれ」って直訳じゃなくて日本で有名になった邦訳なんでしょ?直訳だと「息も絶え絶え」という感じだって言ってたけど。
そうだけど、どうかした?
大変そうなタイトルなんだね。
通例は絶えず続いていて当たり前なものが何かのひょうしで途切れ途切れになってこれはどうも厄介なことになったってイメージかな。けど途切れるってのは悲恋だと結構ロンティックだし死別だと深刻な事態との直面とかもある。世界のどこへ行っても通用する気はするよね。日本では風雅な歌にも出てくる。例えばこんなの。
「朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々(せぜ)の網代木(あじろぎ)/藤原定頼」(千載和歌集・P.101」岩波文庫 一九八六年)
へえ、そういう使い方もあるんだ。
そうだ、タマこの前から「お玉さん」って名前が思いがけず沢山出てくるんでちょっとびっくりしてただろ?恋の歌にこんなのがある。
「玉(たま)の緒(を)の絶(た)えてみじかき命(いのち)もて年月(としつき)ながき恋(こひ)もするかな/紀貫之」(「後撰和歌集」『後撰和歌集 新日本古典文学体系・P.187』岩波書店 一九九〇年)
重そうだけど昔の人のノルタルジーみたいなのも感じるなあ。
こんなのも。
「吹く風にわが身をなさば玉すだれひま求めつつ入(い)るべきものを」(「伊勢物語」『伊勢物語 新潮日本古典集成・P.77』新潮社 一九七六年)
「ひま」って?
隙間のことさ。風になれば玉すだれの隙間から愛人のところへ忍び込めるんだけど惜しいっていうわけ。
そんなのありなの?
ありだったんだろう当時は。
そういえばね、猫が心地よい時の鳴き声と人の笑い声とは違うのかってネット記事見た気がするんだけど、人間って猫から見ればかなりおかしなことを考えるもんだなあってかえって不思議におもった。
忙しいのになぜかそういう暇なことを考えたがるところがあるのさ、人間は。人間社会といってもいいかな。猫は笑うのかどうかと。実際、江戸時代の本開くと書いてあるよ。どこだっけかな。ここらへんかな。
「池田町の笑ひ猫」(「好色五人女 巻二」『井原西鶴集1・P.333』小学館 一九七一年)
「池田町」って?
大阪市北区にいまもあるよ。大阪環状線の天満駅から歩いて近いかな。一昨年にタマの手術で電車乗っただろう。車窓から見渡せばだいたいあの辺りかなとわかるよ。
黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ガナーヴィヤ。インドの古典的宗教音楽のように聴こえる。もちろんその土壌として南インドのタミル地方育ち。スピリチュアル系の響きがやや目立つがもっとコンテンポラリーな幅広さを持っているように感じる。モード系の旋律が南インドとはほど遠いアイルランドやケルトの民謡を思わせるのも古典的民族音楽に精通しているからかも知れない。目下活躍中のガナーヴィヤは作曲を含め何でもできそうなマルチ・プレイヤーとして有名。多彩な楽器を操り様々な民族音楽に造詣が深いことは結構知られているようだ。幾つか検索して調べてみるとアメリカの大学で演劇と心理学の学位を取得しているらしい。ダンスもヴォーカルもやる。実験音楽精神を体現しているような曲もあるが決して「どや顔」で見せびらかすタイプではない。しかし何といってもコルトレーンへのオマージュに満ちている。