白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/妖怪〔鬼・ものの怪〕と見せ金

2021年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

源重信(みなもとのしげのぶ)が左大臣だった頃。「方違(かたたがへ)」=「方角タブー」を避けるため一晩だけ朱雀院(すじやくゐん)で過ごす必要があった。朱雀院の東は今の京都市中京区千本通辺から西は京都市中京区七本松通付近まで。北は三条通から南は四条通まで。広大な敷地を誇った。ちなみに京都市中京区壬生花井(はない)町に「朱雀院跡」の石碑がある。ただ、この石碑の位置は朱雀院でも最南端部に当たるらしい。中央部はそのすぐ北に隣接する京都市中京区壬生天池(あまがいけ)町付近とされる。また東西に走る三条通と四条通との間は北から六角(ろっかく)通・蛸薬師(たこやくし)通・錦小路(にしきこうじ)通が走る。なかでも当時の六角通周辺は平安貴族の住宅街。ほぼ中心部かとされている天池(あまがいけ)町を東西に走るのも六角通である。しかし朱雀院のほぼ真ん中を南北に堂々と貫いているのは今のJR山陰線。何と大胆な、と思わずにいられない。

源重信は警護役の藤原頼信(ふじわらのよりのぶ)を呼ぶ。「餌袋(ゑぶくろ)」(=食物を入れて持ち運ぶための袋)を手渡して様々な果実をぎりぎり一杯まで詰め込ませ、組紐で頑丈に結んで持たせた。頼信はそれを持って先に朱雀院に入って重信の到着を待つことになった。

「大キナル餌袋(ゑぶくろ)ニ交菓子(まぜくだもの)ヲ鉉(はた)ト等シク調(ととの)ヘ入レテ、緋(ひ)ノ組(くみ)ヲ以テ上ヲ強ク封結(ふうむすび)ニシテ、頼信ニ預ケテ、『此レ持行(もちゆき)テ置タレ』トテ給ヒタリケレバ、頼信、餌袋ヲ取テ下部(しもべ)ニ持セテ、朱雀院ニ行ニケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十二・107~108」岩波書店)

やがて夜も更けてきた。朱雀院に到着して待っていた頼信は不覚にも居眠ってしまう。しばらくしてやっと左大臣重信が到着し、一家の子息らが集まってきた。何となく退屈していたのでお菓子代わりにさっそく果実を食べようと餌袋を開けたところ、中には塵一つ見当たらない。

「其ノ餌袋ヲ取寄セテ、開(あけ)テ見ルニ、餌袋ノ内ニ、塵許(ちりばかり)モ入(いり)タル物無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十二・108」岩波書店)

頼信は釈明する。朱雀院へ来る道中、その餌袋には気を付けてずっと監視していたと。ただ考えられるとすれば、ここへ到着して夜更けになり、ほんの僅かばかり居眠ってしまったことくらいで、その隙に妖怪〔鬼・ものの怪〕にしてやられたかと。

「頼信ガ白地目(あからめ)ヲ仕(つかまつ)リ、餌袋ニ目ヲ放(はなち)テ候(さぶら)ハバコソ、人ニハ被取候(とられさぶら)ハメ、殿ヲ罷出(まかりい)ヅルニ、餌袋ヲ給ハリテ、殿ノ下部(しもべ)ニ持(もた)セテ、終道(みちすがら)目不放候(はなちさぶらは)ズ。此(ここ)ニ取入レテハ、ヤガテ此(かく)テ抑(おさへ)テ候(さぶらひ)ツル物ヲ、何(いか)デカ失(うしなひ)候ハム。然(さ)テハ、頼信ガ抑(おさへ)テ寝入(ねいり)テ候ツル程ニ、鬼ナムドノ取テケルニヤ候(さぶらふ)ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十二・108」岩波書店)

頼信の言葉に嘘偽りはまずないと考えられる。というのは、頼信はただ単なる要人警護役の一人ではなく「大臣ノ御許(もと)ニ有(あり)ケレバ」とあり、左大臣重信から厚く寵愛された私的同性愛関係に基づく主従関係があったと見られるからである。頼信にしてみれば、もし万が一にも裏切ったりすればただちに斬られるかもしれない緊張関係があったはずだ。そしてまた重信も頼信の言葉を全面的に信用している。

それはそれとして、妖怪〔鬼・ものの怪〕は貨幣のように何にでも変態可能だ。ふいに消え失せることなど朝飯前。とすれば、妖怪〔鬼・ものの怪〕は頼信の睡眠中にこっそり不意を突いたと思えるにしても、そもそも餌袋一杯に詰め込んだ色々な果実自体、始めから妖怪〔鬼・ものの怪〕が変化していたものかも知れない。頼信が居眠っている間に消え失せて二人の恋愛関係をちょっとからかってやれと思って悪戯したに過ぎないとも考えられる。あるいは左大臣重信自ら怪異を起こすことがあると伝えられていた餌袋を知らぬ顔でわざと頼信に手渡して後で事情を問いただし、信頼関係を試してみたとも読めるだろう。そうなってくると他でもない左大臣こそ次々と変身を遂げる貨幣にも似た妖怪〔鬼・ものの怪〕を何食わぬ顔で操る平安貴族の妖怪じみて見えてこなくもない。

ところで、江戸時代になってなお、妖怪〔鬼・ものの怪〕は当り前のように町人の日常生活の中に溶け込んでいた。しかし何より怖いのは既に実在する貨幣と貨幣経済という目に見える現実である。そこそこ借金するためにはそれに見合った信用がなくてはしようにも出来ない。だから中には、身の丈を大きく見せるために涙ぐましいほど連日連夜、遊び惚けて見せ、自分にはこれほど財力があるのだと周囲に知らしめておく必要があった。とりわけ「人付会(ひとづきあひ)」。常に社交界に出入りして顔を売っておくこと。それが第一の無理無駄である。第二に「傾城(けいせい)狂ひ」。遊郭遊びである。熊楠は明治時代になってあちこちに出現した俄成金についてどうしようもない連中だと呆れ返っている。

「時かわり世移りて、その神主というもの、斎忌どころか、今日この国第一の神官の頭取奥五十鈴という老爺は、『和歌山新報』によるに、『たとい天鈿女(あまのうずめ)の命のごとき醜女になりとも、三日ほど真にほれられたいものだ』などと県庁で放言して、すぱすぱと煙草を官房で環に吹き、その主張とては、どんな植物であろうがなかろうが、詮ずるところは金銭なき社は存置の価値なしと公言し、また合祀大主張紀国造紀俊は、芸妓を妻にし樟(くす)の木などきりちらし、その銭で遊郭に籠城し、二上り新内などを作り、新聞へ投じて自慢しおる」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.421』河出文庫)

第三に「野郎(やらう)遊び」。江戸時代は特に盛んに目立った男色遊び。本当の同性愛ではなく、ただ単に流行しているというだけでその真似事に打ち込む町人・商人が急に増えた。次の文章は西鶴のものだが、「野郎(やらう)遊び」のすぐ後に「尻(しり)」と繋いで少しばかり文才を見せているのが面白い。とはいえこの場合、派手に遊び騒いで見せるのは、金を借りるために必要な信用があると見せかけているに過ぎない。

「おのがかせぎは粗略(そりやく)して、居宅(きよたく)を綺麗(きれい)に作り、朝夕(あさゆふ)酒宴・美食を好み、衣類・腰の物を拵(こしら)へ、分際(ぶんざい)に過ぎたる人付会(ひとづきあひ)、傾城(けいせい)狂ひ・野郎(やらう)遊び、尻(しり)も結ばぬ糸のごと」(日本古典文学全集「日本永代蔵・巻三・四・高野山借銭塚の施主」『井原西鶴集3・P.164~165』小学館)

そして遊びに遊んで融資を引き出すことに成功すればそれもまた散財してしまう。要するに「踏み倒す」のである。今でいえば、投資の当てが外れて失敗しそうになるや、わざと自己破産申告して見せるのに近い。二〇二一年に延期された東京五輪にはまだまだ不安要素が隠されているように。なぜなら、日本国内だけなら何とかなるとしても、多くの上流階級層はどのような職業に従事しているにせよ箪笥貯金しているわけではさらさらなく投資に廻している。投資はグローバルな規模で諸外国を経由して始めて利子を付けて環流してくることができる。そしてそうするほかない。諸外国が世界的規模でパンデミック状態であるということは投資額が巨額であればあるほどその約束通りの回収は困難を極めることへ直結する。例えば、超高級料亭や名だたる名門フレンチレストランなどはこれまで解雇できるぎりぎりの人員にまで解雇してきた。そしてたんまり膨らんだ金を安全パイとして最低限貯蓄しておくわけでもなく、逆に誘われるまま盛大な巨額投資ゲームに注ぎ込んできた。ところがパンデミック発生で、利子を付けてスムーズに還流してくるはずの融資があちこちで根詰まりを起こすに至った。そのような新自由主義に溺れきった投資ゲーム依存は放置しておいて、もっと肝心なことは消費者の消滅である。給料が出ない。出たとしても慎重に節約しておかなくては将来は加速的にますます見えなくなる。東京五輪はいよいよ博打でしかなくなる。そのためになぜ税金で補填されなくてはならないのか。西鶴は見せかけの資産家が選びがちな江戸時代の借金「踏み倒し」について、周囲が被る被害を含め、次のようにもう少し詳しく述べている。

「今時の商人(あきんど)、おのれが身代(しんだい)に応ぜざる奢(おご)りを、皆人の物にて明かし、大年(おほどし)の暮(くれ)におどろき、工(たく)みてたふるる拵(こしら)へして、世間の見せかけよく、隣を買ひ添へ軒をつづけ、町の衆を舟遊びにさそひ、琴引く女をよびよせ、女房一門をいさめ、松茸(まつたけ)・大和柿のはじめを、値段にかまはず見世のはしにて買ひ取り、茶の湯は出来ねど口切(くちきり)前に露地(ろぢ)をつくり、久七に明暮(あけくれ)たたき土(づち)をさせて、奥深(おくぶか)に金屏(きんびやう)をひからし、外よりこのもしがらせ、やがて売家(うりいへ)なるに千年も住むやうに思はせ、内井戸、石の井筒に取りかへ、人の物借(か)らるる程は取り込み、ひそかに田地(でんぢ)を買ひ置き、一生の身業(みすぎ)を拵(こしら)へ、その外、子どもを仕付銀(しつけぎん)まで取りて置き、惣高算用して三分(ぶ)半にまはる程に仕かけ、負(おほ)せ方にわたしけるに、のちは我人(われひと)たいくつして、おのづからに済まし、その当座はかなしき顔つきして、木綿着物(もめんきるもの)にて通りしが、はやこの寒さわすれて、風をいとはむかさね小袖(こそで)、雨ふつて地かたまると、長柄(ながえ)のさしかけ傘(がさ)に竹杖のもつたいらしく、むらさきの頭巾(ずきん)して、『小判は売しりしゆんか』と相場聞くなど、さながらのけ銀のやうに思はれける。さてもおそろしの世や、うかとかし銀(がね)ならず、仲人まかせに娘もやられず、念を入れてさへ損銀おほし」(日本古典文学全集「日本永代蔵・巻三・四・身代かたまる淀川の漆」『井原西鶴集3・P.254~255』小学館)

さらに、落し物というのはいつどこにでもある話だが、江戸では「落してある銀(かね)はなし」と皮肉っている。

「江戸じやとても、落してある銀(かね)はなし、去時、大門(もん)筋(すじ)の仕舞棚(しまいたな)に、昔、長持(ながもち)の、目出度(たく)も、煙(けむり)幾度か、のかれしを、誰(たれ)が持(もち)あきて、今(いま)、売物となりぬ。有人、もとめて、中を洗(あら)へば、雲紙(くもかみ)まくれて、弐重底(ぢうぞこ)に、百両包(つつみ)にして、あきどもなく、ならへ置(を)く、此者、俄長者(にわかちやしや)となりぬ」(井原西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕・卷四・四・忍(しの)び川は手洗(たらい)が越(こす)・P.160」岩波文庫)

誰にも見向きもされなくなり売りに出ていた「長持(ながもち)」があった。まだ使えそうなので買った人がいた。よくよく洗って掃除してみたら二十底になっていて開けてみると「百両」出てきた。「俄長者(にわかちやしや)」になったという。けれども「俄長者(にわかちやしや)」というからには、豪遊し出してたちまち以前よりも貧乏になったというのが、西鶴独特の小説のパターンの一つ。なぜか以前よりも貧乏になる。江戸時代の商人資本は既に明治近代資本主義を真似るに適した風土をじわじわ熟成させようと変容し始めていたのかもしれない。だがもちろん、近代資本主義と近世高利貸しとは決定的に異なるわけだが。

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熊楠による熊野案内/妖怪としての貨幣・山人との区別

2021年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

醍醐天皇(八九七年~九三〇年)の延喜(九〇一年~九二三年)の頃。内裏の「仁寿殿(じんじうでん)」と「南殿(なでん)」=「紫辰殿(ししんでん)」とを繋ぐ廊下に掲げてある灯火を奪い取り、「南殿(なでん)」=「紫辰殿(ししんでん)」の方角へ向かって行き、ふっと消え去る妖怪〔鬼・ものの怪〕が夜な夜な出たことがあったらしい。仁寿殿(じんじうでん)は今の京都市上京区浄福寺通出水下る西入る田中町の中心部付近。その南側に「南殿(なでん)」=「紫辰殿(ししんでん)」があり、さらに天皇の常の御座所「清涼殿(せいりょうでん)」は「仁寿殿(じんじうでん)」のすぐ西側の建物で、今でいう浄福寺通より西側の土屋町通にやや近かった。

「延喜(えんぎ)ノ御代(みよ)ニ、仁寿殿(じんじうでん)ノ台代(たいしろ)ノ御灯油(おほむとなぶら)ヲ、夜半許(よなかばかり)ニ物来テ取(とり)テ南殿様(なでんざま)ニ去ル事、毎夜(よごと)ニ有ル比(ころ)有(あり)ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十・P.105」岩波書店)

不吉な妖怪〔鬼・ものの怪〕の正体をあばいてくれまいかと呼び出されたのが源公忠(みなもとのきんただ)。三十六歌仙の一人として有名だが、薫合の名手でもあった。「源氏物語・梅枝」にも登場する。

「薫衣香(くんえかう)のはうのすぐれたるは、前(さき)の朱雀(すざく)院のをうつさせ給(たまひ)て、公忠(きむただ)の朝臣(あそむ)」(新日本古典文学大系「梅枝」『源氏物語3・P.156』岩波書店)

公忠が調合し衣服に移した香の匂いは百歩ほども離れたところまで芳しい香りを振りまいたという。腕の良いブレンダー、バーテンダー、あるいは江戸時代なら秘伝の出汁(だし)職人、鰻屋のたれの調合人のようなものかも知れない。もっとも、公忠の場合はそれとともに和歌の俊才でなくてはならない。天皇に近侍しているだけあって妖怪退治にも呼び出された。平安遷都から百二十年ばかりも経ち、本会議場たる「八省院=朝堂院」は既に頽廃が激しく、内裏の紫辰殿が議場あるいは重要な儀式の場として使われていた頃に当たる。妖怪〔鬼・ものの怪〕はその紫辰殿と年中行事に用いる仁寿殿との間を夜な夜な往来するところまで迫っていた。

夜になると公忠は、紫辰殿と仁寿殿とを繋ぐ橋の脇で息をこらして妖怪〔鬼・ものの怪〕を待った。午前二時頃のこと。何か不審な物の近づく音が耳に入った。

「公忠ノ弁、中橋ヨリ蜜(ひそか)ニ抜足(ぬきあし)ニ登テ、南殿ノ北ノ脇ニ開(あけ)タル脇戸ノ許(もと)ニ副立(そひたち)て、音(おと)モ不為(せ)ズシテ伺(うかがひ)ケルニ、丑(うし)ノ時ニ成(なり)ヤシヌラムト思フ程ニ、物ノ足音シテ来(きた)ル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十・P.105」岩波書店)

話に聞かされていたように、何物かが橋の灯火を取り去ろうとする物音だけははっきり聞こえる。だがその姿はまったく見えない。すると灯火だけが不意に浮き上がったかと思う暇もなく、すうっと「南殿=紫辰殿」に向かって移動していく。公忠は取り逃すまいと走り寄って足で蹴りを入れてみた。何かに当った手応えがあった。同時に空中にすうっと浮いていた灯火はたちまち落下して油が地面にこぼれ散った。妖怪〔鬼・ものの怪〕らしき物の気配はそのまま南の方角へ走り去ったようだ。

「御灯油ヲ取ル重キ物ノ足音ニテハ有レドモ、体(てい)ハ不見(み)エズ。只御灯油ノ限リ、南殿ノ戸様(とざま)ニ浮(うき)テ登(のぼり)ケルヲ、弁走リ懸(かかり)テ、南殿ノ戸ノ許(もと)ニシテ足ヲ持上(もたげ)テ強ク蹴(くゑ)ケレバ、足ニ物痛ク当ル。御灯油ハ打泛(うちこぼ)シツ。物は南様ニ走リ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十・P.105」岩波書店)

妖怪〔鬼・ものの怪〕らしき物がどうなったかはわからないが、以後、夜間に掲げておく廊下の灯火を奪い去られることはなくなった。また、試しに「南殿=紫辰殿」内部の「塗籠(ぬりごめ)」を様子を改めてみた。「南殿ノ塗籠(ぬりごめ)」は南殿内にあった土壁造りの収蔵施設。開けて点検してみたところ、大量の血がこぼれて散っているばかりで妖怪〔鬼・ものの怪〕の死体と思われるようなものは何一つ見当たらなかった。

「弁ハ返(かへり)テ、殿上(てんじやう)ニテ火ヲ灯(ともし)テ足ヲ見レバ、大指(おほゆび)ノ爪(つめ)欠(かけ)テ血付(つき)タリ。夜アケテ蹴(くゑ)ツル所ヲ見ケレバ、朱枋色ナル血多ク泛(こぼれ)テ、南殿ノ塗籠(ぬりごめ)ノ方様ニ、其ノ血流レタリ。塗籠ヲ開(あけ)テ見ケレバ、血ノミ多ク泛テ他(ほか)ノ物ハ無カリケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十・P.105」岩波書店)

この条を見ると妖怪〔鬼・ものの怪〕はただ単に血を残しただけであって、その正体はわからずじまい。人間の目にはけっして見えないものに変化して登場している。例えば、貨幣は目に見えるけれどもその価値部分〔=労働力〕は研究しないとけっして目に見えてこないのと同様である。

ところで、中世になると妖怪〔鬼・ものの怪〕は俄然、目にもあらわに出現してくる。以前取り上げて述べた「酒呑童子」が代表的。

「丹波国(たんばのくに)大江山(おほえやま)には鬼神(きじん)のすみて日暮(ひく)るれば、近國他國(きんごくたこく)の者迄(ものまで)も、数(かず)を知(し)らず取りて行(いく)」(日本古典文学体系「酒呑童子」『御伽草子・P.361』岩波書店)

しかし酒呑童子はもともと人間である。幼い時、越後の山寺へ稚児に出された過去を持つ。武蔵坊弁慶がそうだったように。

「本國(ほんごく)は越後(ゑちご)の者(もの)、山(やま)寺育(そだ)ちの兒(ちご)なりし」(日本古典文学体系「酒呑童子」『御伽草子・P.373』岩波書店)

そこで、妖怪〔鬼・ものの怪〕と山人〔酒呑童子、弁慶など〕との違いについて明確化しておく必要があるだろう。柳田國男の山人論は随分参考になると思われる。山人あるいは山男について。その遭遇譚を追ってみると、「山男のおりそうな処にばかり山男はいる」という。

「山人が尋常一様の妖怪の類でない証拠としてまず諸君の注意を乞いたいのは、この物が小さな島にはおらぬという点である。もし我々の想像の産物でありとすれば、人の行く処には必ず追随すべきはずであるが、実際の遭遇談は旧日本の三箇の大島の、しかもおよそ定まった十数箇所の山地にのみ伝えられているのである。要約して言えば山男のおりそうな処にばかり山男はいる」(柳田國男「山人外伝史料」『柳田国男全集4・P.392~393』ちくま文庫)

多くの先住民がいたと思われる列島各地だが、そのほとんどすべては山間部だったし今なおそうだ。だから山人目撃譚は不可解なことではまったくなく、逆に必然的産物であることが次の文章で述べられる。

「最初は麓の方から駆け登ったとしても、いったん山に入ってから後は遷徙(せんし)移動に至っては、全然下界と没交渉にこれを行うことができる処ばかりである。九州で申さば今でもこの徒の活動しているのは彦山と霧島の連山である。阿蘇火山の東側の外輪山を通ればほとんど無人の地のみである。ただ阪梨(さかなし)の峠を鉄道が横ぎるようになったら彼等は大いに面食うことになるであろう。四国では石鎚山彙(いしづちさんさんい)と剣山の奥が本拠であるらしい。吉野川の上流には処々に閑静な徒渉(としょう)場があるのみならず、多くの山の峯は白昼大手を振って往来しても見咎(みとが)める者もなく、必要があればちょっと鬱散る(うつさん)のために海岸に出てみることも自由である。それから本土においても彼等にとって不退の領土がある。前に述べた大井川の上流から、たとえば木曽の親類を訪問するにも良い路が幾筋もある。赤石・農鳥(のうとり)に就いて北に向えば、高遠(たかとお)の町の火を眼下に見つつ、そっと蓼科(たてしな)の方へ越えることもできる。夜行の貨物列車に驚かされるのが厭(いや)なら、守屋岳(もりやだけ)の峯伝いに岡谷の製糸工場のすこし下流で天竜川を渡ってもよろしい。塩尻峠や鳥居峠では日本人の方が閉口して地の底を俯伏(ふふく)している。山人にとってはおそらくは里近い平野が我々の方の山路、峠路に該当することであろう。我々の旅人が麓の宿の旅籠(はたご)に泊って明日の山越えの用意をするように、彼等はまた一人旅の昼道は危いなどと、言っているかも知れぬ」(柳田國男「山人外伝史料」『柳田国男全集4・P.393』ちくま文庫)

例えば、幸若舞「未来記」にあるように都のすぐ北に位置する愛宕山。「牛若(源義経)・鬼若(弁慶)」が預けられたところだが、愛宕山には「太郎坊(たらうぼう)」という天狗がいた。

「愛宕(あたご)の山の太郎坊(たらうぼう)」(新日本古典文学体系「未来記」『舞の本・P.306』岩波書店)

愛宕山とは山岳地帯を通して普通に繋がっている比良山にいる天狗は「次郎坊(じらうぼう)」と呼ばれた。

「平野(ひらの)山の大天狗(てんぐ)」(新日本古典文学体系「未来記」『舞の本・P.306』岩波書店)

平野(ひらの)は「比良(ひら)ノ山(やま)」の宛字。もっとも、天狗ではなくあくまで山人に関してだが、柳田はそのような類例が出現する条件を満たすに違いない「山の路」を幾つも列挙している。

「秋葉の奥山のごときもまた安全な路線である。天竜の峡谷で足を沾(ぬら)すことさえ承知ならば、何の骨折りもなく木曽駒ヶ岳一帯の幹路に取り附き得る。木曽から立山へ、または神通(じんずう)川が面倒なら位山(くらいやま)・川上岳の峯通に直接に白山に掛り能郷(のうご)の白山から夜叉池(やしゃがいけ)の霊地を巡遊して、北国海道などは一飛(ひととび)に比良(ひら)にも鞍馬(くらま)にも比叡にも愛宕(あたご)にも出られ、柳桜の平安城を指点して、口先だけならば将門(まさかど)・純友(すみとも)の豪語もなし得たのである。それから西へ行けば大山・三瓶(さんべ)山、因幡・出雲にも小さな植民地がある。また熊野の奥へ越えるのには逢阪山(おうさかやま)に往来の人がちと多過ぎる。ゆえに湖東胆吹山(いぶきやま)の筋を迂回(うかい)して伊勢・大和の境山へ行く。路はやや遥かではあるが住心地(すみごこち)の好い南の海辺である。夜寒の苦が少なくしてかつ白く柔かい海の魚を取り得る望みもある。伊豆の天城(あまぎ)よりは近所で静かでよい。夏になれば富士川を越えて東北の新天地にも遊ぶことができる。富士の八湖を左手にして籠阪(かごさか)を夜半に横ぎり、笹子(ささご)・大菩薩(だいぼさつ)を経て秩父(ちちぶ)の奥に行けばゆるりと休息する。荒船から碓氷(うすい)にかかり浅間の中腹を伝って、左に折れて戸隠・黒姫・妙高山附近の故郷を訪ねるもよし、あるいはまた白根から南会津に入れば、只見川の水源地のごときは安楽国の一である。駒ヶ岳・飯豊(いいで)・朝日岳まで行けば広い国と大きな海が見える。鳥海山(ちょうかいさん)へは大分迂回せねばならぬが、奥州境の山に沿うて北秋田に入り、田代・岩木の山に行けば多くの同類がいる。阿仁(あに)から岩手山の方に出てもよし、鹿角(かづの)の沢へ下ると銅山の煙には弱るが、北上川の分水嶺を過ぎて東海の荒浜の見える閉伊(へい)の山地にも落ち付くことができる」(柳田國男「山人外伝史料」『柳田国男全集4・P.394』ちくま文庫)

ただ、柳田の述べている山人は戦後日本になってなお山間部で狩猟を生業としていたマタギや塗り物椀を作って暮らしていた木地師(きじし)とは異なる。少しばかりだがマタギの里が出てくる有名な小説がある。

「畑のは、貯木場のある広場をかかり口にして伐りひらいた傾斜面から下方に向った平坦地にある。川にそうて、二、三十戸の小舎のような家がならんでいた。つい四十分ほど前に、男が通過した牛滝も野平も、いや、この畑のも含めて、それはこの下北半島の山中にかくれたようにして、置き忘れられたであった。山間部を川内にそうて陸奥湾へ出れば、そこからはいくらか文化の匂(にお)いのする町はある。しかし、いったん山中へはいってしまうと、森林軌道は一本しか通らない死んだようなが眠っていた」(水上勉「飢餓海峡・P.80」新潮文庫)

当時の日本は大都市を除いてどこの地方も大変不便でとても貧しかった。記録に残っているだけでも貧困のどん底が続いた時期を何度も経験している。一方的に昔は良かったと言うわけではない。だが別の価値観から見れば遥か青森県の村落共同体全体が首都・東京とほぼ同時に、瞬時にして危険極まりない状況に叩き込まれざるを得ないような世の中でもなかったとは思うのである。とりわけ社会保障や軍事同盟の面で。

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熊楠による熊野案内/平安京猟奇殺人・残された美女の首

2021年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

熊楠は睡眠中にふらふらと彷徨い出て愛人のところまで行って出現した在原業平の魂について引いている。

「『伊勢物語』に、情婦の許より、今霄夢になん見え給いつると言えりければ、男、

思ひ余り出でにし魂(たま)のあるならん、夜深く見えば魂結びせよ

と詠みし、とあり」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.262』河出文庫)

「伊勢物語・百十」にある和歌。

「思いあまり出(い)でにし魂(たま)のあるならむ夜深く見えば魂むすびせよ」(新潮日本古典集成「伊勢物語・百十・在原業平・P.126」新潮社)

相手の女性が言うには業平の魂がやって来たのは確かなのだが、夢を見ている時に出現したという。その時の業平の返事がこの和歌。夜更けにそちらまで出向いていくわけにもいかないので、今度、そちらへ行く機会ができれば取りに行くから、それまでわたしの魂をあなたのところでしっかり「魂むすび」して預かっておいてほしいと。何とも軽薄な対話ではある。過酷なほど軽薄な女遊びで全盛を極めた業平。が、妖怪〔鬼・ものの怪〕による猟奇殺人を見せつけられ怯えきり、女性を捨ててたちまち逃げ去った話がある。

元種は「伊勢物語」とされる。けれどもその該当箇所は「伊勢物語」の中でも辻褄の合わない部分が多く、以前からほぼまったくの作り話に過ぎない可能性が高いと指摘されてきた箇所。ただ、業平が女遊びの達人として有名だったことから、辻褄の合わない不可解な事件が発生した場合、情愛絡みの猟奇殺人事件までも業平に関連付けて押し切ったのだろうと考えられる。

舞台は京の都からさほど遠くない山科(やましな)。宮中の近くに史上稀にみる美女がいると聞き付けた業平は接近を試みる。だがその父母の守りは極めて固い。この上なく高貴な男性のもとへ嫁がせようと決めている。言うまでもなく警護は厳重。都ばかりかあちこちの地方豪族の間にもその浮き名を馳せてきた業平でさえ噂の美女を自分のものにすることができそうにない。ところがどう口説き落としたのかわからないが、或る日、こっそり連れ出すことに成功した。

「業平ノ中将、力(ちから)無クシテ有リケル程ニ、何(いか)ニシテカ構ヘケム、彼(か)ノ女ヲ蜜(ひそか)ニ盗出(ぬすみいだ)シテケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第七・P.101」岩波書店)

巧みに連れ出しはしたものの、しかし、どこへ連れ込めばよいか迷う業平。持て余してしまうかもと思わなくもない。そこで鴨川を東へ渡り「北山科(きたやましな)」へ連れ込み隠れようと考えた。しかしそこは今でいうどこに当たるのか。予備知識として少しばかり頭を切り換えて考えてみたい。

「北山科」とある。「産女(うぶめ)」の説話で有名な「第十五」でも「北山科」という地名が出てくる。「産女(うぶめ)」の説話では「粟田山(あわたやま)」という名も書かれており、現在の京都市山科区に隣接する東山区の東端部を粟田口(あわたぐち)という。また、現在の滋賀県大津市と隣接する京都市左京区の東南端部も粟田口(あわたぐち)という。東山区東端部「粟田口」から左京区東南端部「粟田口」までが今の山科区北部に当たる。さらに東山区東端部「粟田口」の東山山頂から山科区西端部「京都中央斎場」周辺は桓武天皇による平安遷都より四百年ほど前に造営された古代古墳密集地。と同時に滋賀県大津市に隣接する左京区東南端部「粟田口」から大津市長良(ながら)地区もまた古代古墳密集地。そしてまた一九七〇年代、大阪府吹田市の千里ニュータウンや京都市西京区洛西ニュータウン建設と並行して今の大津市に比叡平(ひえいだいら)団地が開発されたわけだが、その少し北西部で京都市との境界線に当たる箇所に巨石を二重に積み上げた「重ね石」という遺跡がある。この「重ね石」は古代古墳とはまた異なり修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)を祀っている。考えないといけないのは、国道一号線開通から後、日本人の思考回路はすっかり変わってしまい、大路にしろ小路にしろ東西に走るのが常だと思い込んでしまっている点。それ以前は山岳地帯を南北斜めに走っていたに違いない古道(熊野古道のような)について、たった二十年も経ないうちに忘れ去られてしまったという実状がある。また今上げた東山区東端部の粟田口から滋賀県大津市へ続く山岳地帯には平安時代の早い時期すでに貴族らの別荘が営まれていたことを忘れてはならない。明治国家成立以降から考えても、近代皇室の別荘が軽井沢という山間部に開かれるまで、そこは木枯し紋次郎のような旅人あるいは山人ばかりが行き来する獣道に等しい聖域だった。

業平は、平安時代初期の北山科に開かれて百年ほど経ち、既に住む人々はなく廃墟化しているかつての貴族の別荘を見つける。そして連れ出してきた美女と一緒に入り込む。敷地内には木造の倉が見える。だが両開きの倉の一方の扉は既に倒れ、さらに住居だった家屋の板敷の板は一つ残らず朽ち果ててもはやない。残されていた畳一枚を引っ張り出し、美女とともに木造の倉の中へ入って畳の上でさっそく抱き合い始めた。山中の廃屋でなおかつ夜中のことだ。誰一人見ていない。

「其レニ、忽(たちまち)ニ可将隠(ゐてかくすべ)キ所ノ無カリケレバ、思ヒ繚(あつかひ)テエ、北山科(きたやましな)ノ辺(わたり)ニ旧(ふる)キ山庄(さんざう)ノ荒テ人モ不住(すま)ヌガ有ケルニ、其ノ家ノ内ニ大(おほき)ナルアゼ倉(くら)有ケリ。片戸(かたど)ハ倒レテナム有ケル。住ケル屋ハ板敷(いたじき)ノ板モ無クテ、可立寄(たちよるべ)キ様(やう)モ無カリケレバ、此ノ倉ノ内ニ畳一枚ヲ具(ぐ)シテ、此ノ女ヲ具シテ将行(ゐてゆき)テ臥セタリケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第七・P.101」岩波書店)

二人とも夢中になっているといきなり飛び上がるほど強烈な雷鳴が鳴り響いた。異様に思った業平はいったん女性を自分の背後に下がらせ、太刀を抜いて身構えた。当時は雷鳴を伴う妖怪〔鬼・ものの怪〕に抵抗するには金属が妥当と考えられていた。自然現象としての雷なら逆に金属は避雷針になるため危険なのだが、相手が妖怪〔鬼・ものの怪〕だとわかっているときは金属で対抗するのが有効とされた。敵は鬼だから三種の神器の一つである剣を掲げて退散させるか、あるいは雷神の怒りを押し鎮めようというアニミズム的な考えがあったのだろう。しばらくして夜が明け始め、雷鳴も遠のいていった。ようやく妖魔は去ったかと業平は思う。にもかかわらず背後に下がらせておいた女性は何も言わない。不審に思い女性の側を振り返った。するとその美女の頭部と着ていた衣装だけが打ち捨てられているばかり。ぞっとした業平は自分の着物もその場に置き捨てたまま走って逃げ去った。

「而(しか)ル間、女、音(こゑ)モ不為(せ)ザリケレバ、中将怪(あやし)ムデ見返(みかへり)テ見ルニ、女ノ頭(かしら)ノ限(かぎり)ト着タリケル衣共(きぬども)ト許(ばかり)残(のこり)タリ。中将、奇異(あさまし)ク怖(おそろ)シクテ、着物(きもの)ヲモ不取敢(とりあへ)ズ逃テ去ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第七・P.102」岩波書店)

どこからその話が洩れたのかわからないが、それ以降人々の間で、この木造の倉は鬼の住処として知れ渡ることになった。怪異の正体は突然辺りに轟き渡った雷電霹靂ではなかったのだ。

「其(そ)レヨリ後(のち)ナム、此ノ倉ハ人取リ為(す)ル倉トハ知(しり)ケル。然レバ、雷電霹靂ニハ非(あら)ズシテ、倉ニ住ケル鬼ノシケルニヤ有ケム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第七・P.102」岩波書店)

ところがしかし、類話が多く仏教説話形式を軸とする「日本霊異記」や「宇治拾遺物語」と比較した場合に限り、「今昔物語」所収の伝説・説話は、お説教で締め括られているものが極めて少ない。むしろ様々な伝説・説話・怪奇譚があちこちに散りばめられ投げ出されている。思うのだが、「倉ニ住ケル鬼」とあるけれども、「日本霊異記」あるいはより一層仏教説話にシフトした「沙石集」ならそれで構わない。しかし「今昔物語」の場合、その成立条件となっている都の加速的荒廃、平安京全体の過酷な廃墟化並びに治まる気配が一向に見られないどころかますます増殖する飢餓や疫病蔓延による人々の荒れた生活環境に即して見る必要性を感じる。とすれば、おそらく「倉ニ住ケル鬼」ではない。逆に、必要がなくなり手入れも行き届かず打ち棄てられた「倉」《へと》妖怪〔鬼・ものの怪〕が変容したのだ。妖怪〔鬼・ものの怪〕の「倉」への変態。これまで見てきた通りここでもまた、妖怪〔鬼・ものの怪〕の自由自在な変態性が顔を覗かせている。さらに言えば、妖怪〔鬼・ものの怪〕という言葉に惑わされるのも考えものだろう。彼らにとってそもそも人間のような性別は不可能である。獣にもなれば神にもなる。単なる「板」や「銅製品」といった無生物にもなる。近現代の貨幣のように、それはどんな商品にでも変態可能な位置を獲得しつつ聳え立っている。

なお、比叡平地区ニュータウンの老朽化に伴う地域再編工事が六、七年ばかり前から始まっているため、大津市役所のすぐそばを見下ろす位置にあった「重ね石」が今どうなっているか、移動したか小祠だけが残されているのか、よくわからない。ただ、一九三五年(昭和十年)の豪雨で大規模な山津波(やまつなみ)を起こした地域である。最先端土木テクノロジーが発展した今なお豪雨の際には県内でも真っ先に避難指示が出される箇所の一つとして有名なのはなぜだろう。「重ね石」には文字を彫った痕跡が残されていて、この地点から西南は京、東北は近江と書かれていた。さらに高島市に至ると白鬚明神があり、近江国としては同じだが、そこから北は気候がまるで異なる地域だ。北の方角は越前・越中・越後へ向かう北国海道の境界線であることが随分強調されている。「重ね石」にせよ白髭明神にせよ、道祖神=塞神(さえのかみ)を意味していることはもはや明らかだと思わざるを得ない。しかし変幻自在の妖怪〔鬼・ものの怪〕といっても唯一の鬼が全国一律に各地を巡回するわけではない。地方によってテリトリーがある。その多くは山岳地帯を通して繋がっていると同時に区別されてもいる。しかしそれは時代を降るにつれて山人が代弁する形に置き換えられている。かつて山人あるいは山神のみが知っていたとされる古道(こどう)とは何か。「今昔物語」を通して何か見えてくるものはないだろうか。

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熊楠による熊野案内/蕪(かぶら)と開(つび)・神の女性器

2021年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、京の都から東国に向かって下っていく男性がいた。途中、抑えきれない性欲が勃然と湧き起こってきて、どうすればよいものかと持て余してしまった。ちょうど通りかかったところ道路沿いの垣の中が畑になっていてみれば大きな蕪(かぶら)が見える。男性は垣の中の入って大きな蕪を一つ抜き取ると、それに穴を掘り、穴の中に勃起した男性器を差し込んで射精した。すっきりするとすぐ穴の開いた蕪を垣の中に投げ入れて戻しその場を通り過ぎた。

「京ヨリ東(あづま)ノ方(かた)ニ下(くだ)ル者有(あり)ケリ。何(いづ)レノ国、郡(こほり)トハ不知(しら)デ、一(ひとつ)ノ郷(さと)ヲ通(とほり)ケル程ニ、俄(にはか)ニ婬欲(いんよく)盛(わかり)ニ発(おこり)テ、女ノ事ノ物ニ狂(くるふ)ガ如(ごとく)ニ思(おぼえ)ケレバ、心ヲ難静(しづめがた)メクテ思ヒ繚(あつかひ)ケル程ニ、大路辺(おほちのほとり)ニ有(あり)ケル垣(かき)ノ内ニ、青菜(あをな)ト云(いふ)物、糸(いと)高ク盛(さかり)ニ生滋(おひしげり)タリ。十月許(ばかり)ノ事ナレバ、蕪(かぶら)ノ根大キニシテ有(あり)ケリ。此ノ男、忽(たちまち)ニ馬ヨリ下(おり)テ、其ノ垣内(かきのうち)ニ入テ、蕪ノ根ノ大(おほき)ナルヲ一ツ引(ひき)テ取(とり)テ、其(それ)ヲ彫(ゑり)テ、其ノ穴ヲ娶(とつぎ)テ婬(いん)ヲ成シテケリ。然(さ)テ即(すなは)チ、垣ノ内ニ投入(ねげいれ)テ過(すぎ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.6」岩波書店)

しばらく経って、その畑の持ち主が使っている若い女性らを連れて野菜類の収穫に取り掛かった。その若い女性の中に十四、五歳くらいの処女がいた。といっても初潮はすでに経験していていつでも妊娠可能なのだが、まだ本当の男性経験はない中間の年頃。野菜を収穫しながらぶらぶらしていると穴が開いて一部分に皺が寄っている妙な蕪を見付けた。不思議に思いながらも食べてしまった。

「其ノ畠ニ行(ゆき)テ青葉ヲ引取(ひきと)ル程ニ、年十四、五歳許(ばかり)ナル女子ノ、未(いま)ダ男ニハ不触(ふれざ)リケル有テ、其ヲ、青葉引取ル程ニ、垣ノ廻(めぐり)ヲ行(ありき)テ遊(あそび)ケルニ、彼(か)ノ男ノ投入タル蕪ヲ見付(みつけ)テ、『此(ここ)ニ穴ヲ彫(ゑり)タル蕪ノ有(ある)ゾ、此(こ)ハ何ゾ』ナド云(いひ)テ、暫(しばら)ク、翫(もてあそび)ケル程ニ、皺干(しわび)タリケルヲ掻削(かきけづり)テ食(くひ)ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.6~7」岩波書店)

それから数日後。なんだか体調がすぐれない。父母が心配に思っていると、何と妊娠していることが判明した。娘を問いただしてみた。ところが性交などまったく身に覚えがないという。ただ、気にかかることと言えば、野菜の収穫の日に妙な蕪を見付けて食べてから、何となく気分が変わったように思うという。

「我、更ニ男ノ当(あた)リニ寄ル事無シ。只怪(あやし)キ事ハ、然(しか)ノ日、然(し)カ有(あり)シ蕪ヲ見付テナン食(く)ヒタリシ。其ノ日ヨリ心地モ違(たが)ヒ、此(か)ク成(なり)タルゾ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.7」岩波書店)

それなりの月日を経ると娘はなんとも可愛らしい男の子を出産した。

「月来(つきごろ)を経ル程ニ、月既ニ満(みち)テ、糸厳(いつく)シ気(げ)ナル男子(をのこご)ヲ平(たいら)カニ産(うみ)ツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.7」岩波書店)

産まれた子どもは娘の父母の手で育てられた。数年が経った。東国に下る際に蕪に穴を掘って射精し去った例の男性が今度は都に戻る際、一行を連れて再びその畑の前を通り過ぎようとした。男性はふと思い出しかつてこの畑の前を通りかかった時、こんなことがあったと従者たちに語って聞かせた。声高な話し方だったので畑で野菜の収穫に当たっていた娘の母の耳にも届いた。そういえば娘が妊娠した時に不可解なことを言っていたことにはたと気づき、通り過ぎようとしている男性を呼び止めた。男性は自分のことを蕪泥棒と聞き間違えて呼び止めたのだろうと思い、とっとと通り過ぎてしまおうとしたところ娘の母は、とても重大な話があるのです、何としてでも聞いてもらいたいと懇願してきた。

「此ノ母、垣内(かきのうち)ニシテ慥(たしか)ニ聞(きき)テ、娘ノ云事(いふこと)ヲ思ヒ出(いで)テ、怪ク思(おぼ)ヘケレバ、垣ノ内ヨリ出(いで)テ、『何(いか)ニ、何ニ』ト問ふに、男ハ、『蕪盗(ぬすみ)タリ』トテ、云(いふ)ヲ咎(とが)メテ云ナリトテ、『戯言(たはぶれごと)ニ侍リ』トテ只逃(にげ)ニ逃(にぐ)ルヲ、母、『極(きはめ)テ大切ノ事共ノ有レバ、必ズ承(うけたまは)ラムト思フ事ノ侍ル也。我ガ君宣(のたま)ヘ』」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.8」岩波書店)

男性は娘の母の様子を見て只事でない用事でもあるだろうと思い、聞かれるまま、そういえば何年か前にこの畑の蕪を一つ引き抜いて穴を開けて射精に用いた話をして聞かせた。もとより聖人の身ではなしただ単なる凡夫ゆえ、そんなことの一つもあるだろうと。すると娘の母は血相を変えてちょっと我が家まで付いてきて欲しいと男性をぐいぐい連れてきた。家に着くとその母はいう。実はかつてこんなことが娘の身に起こったのです。そこであなた、試しに、産まれた子どもと一度面会してやってくれませんかと泣いて頼む。出てきた子どもと見比べてみると、その男性と「露(つゆ)違(たがひ)タル所無」いほど瓜二つの顔立ち。男性は思う。世にも珍しい貴重な縁というほかない。そんな出来事があるのか。で、どうするべきだろうかと。娘の母はいう。ここはあなたの気持ち一つでしょうと。娘を呼ぶと低い身分の者ではあるけれど清廉そうな二十歳ばかりの女性で、その子もすでに五、六歳ばかりに育っており美童である。

「女、『実(まこと)ニハ然々(しかしか)ノ事ノ有レバ、其ノ児(ちご)ヲ其(そ)コニ見合(みあは)セムト思フ也』ト云(いひ)テ、子ヲ将出(ゐていで)テ見ルニ、此ノ男ニ露(つゆ)違(たがひ)タル所無ク似タリ。其(その)時ニ、男モ哀(あはれ)ニ思(おもひ)テ、『然(さ)ハ、此(かか)ル宿世(しくせ)モ有リケリ。此(こ)ハ何(いか)ガシ可侍(はべるべ)キ』ト云ケレバ、女、『今ハ、只何(い)カニモ其(そこ)ノ御心(みこころ)也』ト、児ノ母ヲ呼出(よびいで)テ見スレバ、下衆(げす)乍(ながら)モ糸浄気(きよげ)也。女ノ年二十許(はたちばかり)ナル也。児モ五、六歳許ニテ、糸厳(いつく)シ気(げ)ナル男子(をのこご)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.8」岩波書店)

男性は思う。京に帰ってもこれといった親類縁者がいるわけでなし、ここに落ち着くのも一考かとその若い女性と夫婦になってそのまま一緒に暮らすことにした。

さてそこでまた別に考えたいことがある。熊楠は女性器の呼び名について「貝(かい)」あるいは「開(かい)」、それがだんだん変化して「豆比(つび)」となった地域もあると。

「『和漢三才図会』四十七に、『世俗、婦人の陰戸を隠して貝(かい)と称し、また転じて豆比(つび)という』」(南方熊楠「『摩羅考』について」『浄のセクソロジー・P.207』河出文庫)

熊楠は触れていないものの、ちなみに「今昔物語」所収のこの説話では「開(つび)」として採用されている。

「此(ここ)ヲ過(すぎ)シ、術無(ずつな)ク開(つび)ノ欲(ほし)クテ難堪(たへがた)カリシカバ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.7」岩波書店)

熊楠は「山婆の陰垢(つびくそ)」と呼ばれている菌(きのこ)について述べている。

「安堵峰辺で、樅(もみ)に着く山婆(やまんば)の陰垢(つびくそ)と呼ぶ物を二つ採ったが、これは鼠色で膠の半凝様の菌(きのこ)で、裏に細かい針がある。ーーー予は右の山婆の陰垢(つびくそ)と、今一種全体純白で杉の幹につくものを那智山で見出だした。いずれも砂糖をかけると、寒天を食うように賞翫しえて、全く害を受けず」(南方熊楠「山婆の髪の毛」『森の思想・P.328~329』河出文庫)

山姥(やまんば)は何度も触れているように、もちろんただ単なる老婆のことを指していうわけではない。記紀神話に載る伊弉冉尊(イザナミノミコト)こそ日本最初の山姥である。そして今引用した説話は、なるほど仏教説話として見るかぎり「今昔物語」の中の「宿報譚」に分類されているわけだが、にもかかわらず、異類異形誕生神話に伴う「異常出産」の典型例として十分に捉えることができる点に注目すべきだろうと思われる。例えば、神武天皇はけっして長男ではなく逆に末子である。

「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)、其の姨(おば)玉依姫を以て妃(ひめ)としたまふ。彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を生(な)しませり。次(つぎ)に稲飯命(いなひのみこと)。次に三毛入野命(みけいりののみこと)。次に神日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)。凡(すべ)て四(よはしら)の男(ひこみこ)を生(な)す」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第十段・P.194」岩波文庫)

さらに東征の途中、紀州熊野周辺までやって来た時、自分の出生について解けない謎に直面し苦悩する。神武は自分自身について海の者とも山の者ともいずれにも区別不可能な位置に置かれていることに深い煩悶を覚える。ダブルバインド(相反傾向・板挟み)に叩き込まれる。

「進みて紀国(きのくに)の竈山(かまやま)に到(いた)りて、五瀬命(いつせのみこと)、軍(みいくさ)に薨(かむさ)りましぬ。因りて竈山(かまやま)に葬(はぶ)りまつる。六月(みなづき)の乙未(きのとのひつじ)の朔丁巳(ついたちひのとのみのひ)に、軍(みいくさ)、名草邑(なくさのむら)に至(いた)る。即(すなは)ち名草戸畔(なくさとべ)といふ者(もの)を誅(ころ)す。遂(つひ)に狹野(さの)を越(こ)えて、熊野(くまの)の神邑(みわのむら)に到(いた)り、且(すなわ)ち天磐盾(あまのいはたて)に登(のぼ)る。仍(よ)りて軍(いくさ)を引(ひ)きて漸(やうやく)進(すす)む。海(わた)の中(なか)にして卒(にはか)に暴風(あからしまかぜ)に遇(あ)ひぬ。皇舟漂蕩(みふねただよ)ふ。時に稲飯命(いなひのみこと)、乃(すなは)ち歎(なげ)きて曰(のたま)はく、『嗟乎(ああ)、吾(あ)が祖(みおや)は天神(あまつかみ)、母(いろは)は海神(わたつみ)なり。如何(いかに)ぞ我(われ)を陸(くが)に厄(たしな)め、復(また)我を海(わた)に厄(たしな)むや』とのたまふ。言(のたま)ひ訖(をは)りて、乃ち剣(つるぎ)を抜(ぬ)きて海(うみ)に入りて、鋤持神(さひもちのかみ)と化為(な)る。三毛入野命(みけいりののみこと)、亦(また)恨(うら)みて曰(のたま)はく、『我が母(いろ)及(およ)び姨(おば)は、並(ならび)に是(これ)海神(わたつみ)なり。何為(いかに)ぞ波瀾(なみ)を起(た)てて、灌溺(おぼほ)すや』とのたまひて、即ち浪(なみ)の秀(すゑ)を蹈(ふ)みて、常世郷(とこよのくに)に往(い)でましぬ」(「日本書紀1・巻第三・神武天皇 即位前紀戊午年五月~六月・P.208」岩波文庫)

「異常出産」で有名なのは神功皇后の条に出てくる「鎮懐石(しずめいし)」のケース。

「時に、適(たまたま)皇后(きさき)の開胎(うむがつき)に当(あた)れり。皇后、則ち石(いし)を取(と)りて腰(みこし)に挿(さしはさ)みて、祈(いの)りたまひて曰(まう)したまはく、『事(こと)竟(を)へて還(かえ)らむ日に、茲土(ここ)に産(あ)れたまへ』ともうしたまふ。其の石は、今(いま)伊覩県(いとのあがた)の道(みち)の辺(ほとり)に在(あ)り。既(すで)にして則ち荒魂(あらみたま)を撝(を)ぎたまひて、軍(いくさ)の先鋒(さき)とし、和魂(にぎみたま)を請(ね)ぎて、王船(みふね)の鎮(しずめ)としたまふ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政前紀・P.146~148」岩波文庫)

そして産まれたのが後の応神天皇だが、神功皇后はまだ嬰児の応神を連れてなぜか紀州熊野周辺の海をうろうろする。

「時(とき)に皇后(きさき)、忍熊王師(おしくまのみこいくさ)を起(おこ)して待(ま)てりと聞(きこ)しめして、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命(みことおほ)せて、皇子(みこ)を懐(いだ)きて、横(よこしま)に南海(みなみのみち)より出(い)でて、紀伊水門(きのくにのみなと)に泊(とま)らしむ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.158~160」岩波文庫)

神功皇后は「日高(ひたか)・小竹宮(しののみや)」と紀州周辺を移動する。なぜそのような必要があるのか。北九州から朝鮮半島へ軍事遠征した直後。当然のことだが戦闘行為なので皇后とその軍隊は血を浴びて帰ってきたところである。都へ戻るためにはミソギを終えてからでなくては戻るにも許されない。大規模軍事遠征のミソギのためには是非とも熊野へ赴く必要があった。

「皇后、南(みなみのかた)紀伊国(きのくに)に詣(いた)りまして、太子(ひつぎのみこ)に日高(ひたか)に会(あ)ひぬ。群臣(まへつきみ)と議及(はか)りて、遂(つひ)に忍熊王を攻(せ)めむとして、更(さら)に小竹宮(しののみや)に遷(うつ)ります」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.160」岩波文庫)

さらに斉明天皇の条では政争に巻き込まれた「有間皇子(ありまのみこ)」が精神的病いの治癒のため紀州「牟婁温湯(むろのゆ)」へ出かけている。

「九月(ながつき)に、有間皇子(ありまのみこ)、性黠(ひととなりさと)くして陽狂(うほりくるひ)すと、云云(しかしかいふ)。牟婁温湯(むろのゆ)に往(ゆ)きて、病(やまひ)を療(をさ)むる偽(まね)して来(まうき)、国(くに)の体勢(なり)を讃(ほ)めて曰(い)はく、『纔(ひただ)彼(そ)の地(ところ)を観(み)るに、病自(おの)づから蠲消(のぞこ)りぬ』と、云云(しかしかいふ)。天皇(すめらみこと)、聞(きこ)しめし悦(よろこ)びたまひて、往(おは)しまして観(みそなは)さむと思欲(おもほ)す」(「日本書紀4・巻第二六・斉明天皇二年是歳~三年是歳・P336」岩波文庫)

その二年後、斉明天皇は再び「紀温湯(きのゆ)」に赴いている。

「冬(ふゆ)十月(かむなづき)の庚戌(かのえいぬ)の朔甲子(ついたちきのえねのひ)に、紀温湯(きのゆ)に幸(いでま)す。天皇(すめらみこと)、皇孫建王(みまごたけるのみこ)を憶(おもほしい)でて、愴爾(いた)み悲泣(かなし)びたまふ」(「日本書紀4・巻第二六・斉明天皇四年七月~十一月・P342」岩波文庫)

ごく普通の観光案内であればただ温泉の箇所のみを引用すればそれでよいのかも知れない。だが熊楠や柳田國男から始まり、さらに戦後日本で文化人類学研究が行われるようになると天皇家と熊野とのただならぬ関係、日本最大のミソギの地としての熊野を無視して通ることは不可能になる。熊楠は早くから「御伽草子」所収「熊野の本地の草子」を愛読している。以前引用したように「熊野の本地の草子」は「御伽草子」の中で最も陰惨で残酷な「異常出産譚」として他に類を見ない「物語=絵解き」だ。絵解きは熊野比丘尼の職業だが、男性の琵琶法師が主に「平家物語」を語ったのに対し、女性の比丘尼は「熊野本地」を語って歩いた。そしてなお熊野比丘尼は生業のためにあちこちを旅する女性であり、いつも杖を持って歩くわけだが、その杖は「丁子型の撞木(しゅもく)」である。かつて撞木型の杖には奇異な力が宿るとされていた。思い起こさないだろうか。

「鮫の一種に撞木鮫(しゆもくざめ)英語でハンマー・ヘッデッド・シャーク(槌頭の鮫)とて頭丁字形を成し両端に目ありすこぶる奇態ながインド洋に多く欧州や本邦の海にも産するのが疑いなくかの佐比神だ、十二年前熊野の勝浦の漁夫がこの鮫を取って船に入れ置き、腓(こむら)を大部分噛み裂(さ)かれ病院へ運ばるるを見た、獰猛な物で形貌奇異だから古人が神としたも無理でない」(南方熊楠「田原藤太竜宮入りの話」『十二支考・上・P.199~120』岩波文庫)

さらに。

「古え鮪、鰹、目黒、鯛、鮒、オコゼ、コノシロ、鯖(『玄同放言』巻三)、鎌足(かます)、房前(はぜ)(石野広通著『絵そら言』)等、魚に資(よ)れる人名多く、神仏が特種の魚を好悪する伝説すこぶる少なからざるは、今日までスコットランド、アイルランドに、地方に随って魚を食うに好悪あるに同じく、古えトテミズム盛んなりし遺風と見ゆ」(南方熊楠「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」『南方民俗学・P.195~196』河出文庫)

しかし京から「東国(あづまのくに)」へ向かう街道筋で蕪(かぶら)の産地といえばどこだろう。平安時代中後期ではまだ名産品として名が上がるような品種はなかったはず。当時は多くの場合「あおな」と呼ばれていた。だが日本に入ってきたのはかなり古い。古事記・日本書紀・万葉集に載っていることで有名。近江国から美濃国、あるいは尾張国を通る東海道沿いのどこか、としか言えない。

そんなわけで、おまけの一句。

「おく霜の一味付けし蕪かな」(一茶)

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熊楠による熊野案内/動植物が鬼になるとき

2021年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

妖怪〔鬼・ものの怪〕は時として人間の姿に変身して出現した。次に言及するのは「幡磨(はりま)ノ国」(現・兵庫県南西部)の或る家で死者が出た時のこと。葬送の際の打ち合わせなどを行っていたが、呼んだ陰陽師が奇妙なことを言い出した。近いうちにこの家に鬼がやって来るようだ。十分用心しておくのがよいと。その家の人々は怖気付いて陰陽師のいうように厳重な物忌に徹することにした。家屋を閉め切ってしまい玄関に物忌と書いた札をびしりと立てて、家の者全員が一日中じっと我慢する。しかし鬼はどこからどんな姿形でやって来るというのか。陰陽師に尋ねると玄関から人間の姿形で来るという。

「門(かど)ヨリ、人ノ体(てい)ニテ可来(きたるべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十三・P.133」岩波書店)

その日がやって来たと思って待ち構え、玄関をいつもより頑丈に閉じ、ほんの僅かの隙間から外の様子を窺っていると、藍色に染めた水干袴(すいかんはかま)を着て笠を紐で首からぶらさげた男性が不意に玄関前に立った。家をじっと見つめている。

「藍摺(あゐずり)ノ水干袴(すいかんはかま)着タル男ノ、笠頸(くび)ニ懸(かけ)タル、門ノ外(と)ニ立(たち)テ臨(のぞ)ク」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十三・P.133」岩波書店)

来た、と思ってしばらくすると、どうやってかわからないが門を開けてもいないのに家の中に入ってきた。と見る見る間にもう竈(かまど)の前にいる。竈は古くから竈神(かまどがみ)と言われるように家の中で神の宿る場所。言うまでもなく火を焚いて食事を用意し生きていくほかない人間には欠かせない場であるため。また、入って来た鬼はなるほど人間の姿形に変身しているものの家の誰にも面識のない男性だった。

「此ノ鬼ノ男(をとこ)、暫(しばら)ク臨キ立(たち)テ、何(いか)ニシテ入ルトモ不見(み)エデ入(いり)ヌ。然(さ)テ、家ノ内ニ入来(いりき)テ、竈戸(かまど)ノ前ニ居(ゐ)タリ。更(さら)ニ見知(みしり)タル者ニ非(あら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十三・P.133~134」岩波書店)

いきなり竈の前まで移動した妖怪〔鬼・ものの怪〕を見て、家の者らは皆、これは既に駄目だ、喰い殺されて終わってしまう、観念するほかないとあっけなくすべての気力が萎え切ってしまった。ところが、もし本当に喰い殺されてしまうばかりなら、何もしないまま諦めて死を待つよりも鬼と闘った証しの一つも残したいと家の主人の子の若い男子が言い出した。尖(とがり)の着いた弓矢を取り出してそっと鬼に近づき鬼のからだの真ん中目掛けて射た。なお、「最中」(もなか)は「真ん中」を意味するが人間姿に化けた鬼のどの箇所なのかはわからない。ともかく大きな矢は命中し、射られたとたん鬼はいっぺんに外へ走り出たと思う間もなく消え失せた。しかし射た矢は鬼のからだに突き立ったわけではなく逆に跳ね返ってきた。

「鬼ハ、被射(いられ)ケルママニ立走(たちはしり)テ出ヅ、ト思フ程ニ、掻消(かきけ)ツ様(やう)ニ失(うせ)ニケリ。箭(や)ハ不立(たた)ズシテ、踊返(をどりかへり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十三・P.134」岩波書店)

本文では、鬼がすっかり人間の姿で出現するのは稀なことらしい、と述べられて終わっている。しかし問題はこの説話の由来が或る程度特定できる点にある。厳重な物忌が必要とされた時、家屋は防御のために「桃の木」を材料としたしつらえに改装されている。

「門(かど)ニ物忌(ものいみ)ノ札(ふむだ)ヲ立テテ、桃ノ木ヲ切塞(きりふさ)ギテ、呪法(ほふ)ヲシタリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十三・P.133」岩波書店)

古代中国の追儺(ついな)がその原点にある。

追儺(ついな)は本来、桃の木を呪力のある聖なる神木とする信仰から生じた。「論語」にこうある。

「郷人儺、朝服而立阼階

(書き下し)郷人の儺(おにやらい)には、朝服(ちょうふく)して阼階(そかい)に立つ

(現代語訳)村人の疫病神を追う行列が門内にはいってくると、朝廷に出る礼服をつけて、わが家の宗廟の正殿の東寄りの階段のもとに立って迎えられた」(「論語・第五巻・第十・郷党篇・十四・P.277」中公文庫)

この信仰は日本に輸入されそのまま定着した。奈良時代の慶雲三年(七〇六年)、疫病流行時に悪鬼退散を願って追儺(ついな)が行われた。

「十二月九日 この年、全国で疫病がはやり、人民が多く死んだので、初めて土牛を作って追儺(ついな=十二月晦日の悪鬼払い)の行事をおこなった」(「続日本紀・巻第三・文武天皇慶雲三年(七〇六年)・P.86」講談社学術文庫)

今の日本を見ると追儺(ついな)は「節分の豆まき」として継承されている。

しかしさらに遥か以前、「日本書紀」に次の記事が見える。

黄泉国(よみのくに)で伊弉冉尊(いざなみのみこと)に出会った伊弉諾尊(いざなきのみこと)。膨れ上がったイザナミの死体が立ち上がって追いかけて来た時、それを振り払いながら逃げようとして「桃の実」を投げつけた。さらに桃の木で出来た「杖」(みつゑ)を投げつけながらここからこちら側へは戻って来ることはもはやできないと宣言している点。

「伊弉諾尊(いざなきのみこと)、驚(おどろ)きて走(に)げ還(かへ)りたまふ。是の時に、雷等(いかづちども)皆(みな)起(た)ちて追(お)ひ来(きた)る。時に、道(みち)の辺(ほとり)に大(おほ)きなる桃(もも)の樹(き)有り。故(かれ)、伊弉諾尊、其の樹の下(もと)に隠(かく)れて、因(よ)りて其の実(み)を採(と)りて、雷(いかづち)に擲(な)げしかば、雷等(ども)、皆退走(いしぞ)きぬ。此(これ)桃を用(も)て鬼(おに)を避(ふせ)縁(ことのもと)なり。時に伊弉諾尊、乃ち其の杖(みつゑ)を投(なげう)てて曰(のたま)はく、『此(これ)より以還(このかた)、雷敢来(えこ)じ』とのたまふ。是(これ)を岐神(ふなとのかみ)と謂(まう)す。此(これ)、本(もと)の号(な)は来名戸(くなと)の祖神(さへのかみ)と曰(まう)す」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.54」岩波文庫)

桃の実に呪力があるとする信仰は中国由来。さらに桃の木を素材にして作った杖は「祖神(さへのかみ)と曰(まう)す」とあるように、境界線を指し示す道具としての意味を与えられていること。「祖神(さへのかみ)」=「道祖神(どうそじん)」信仰もまた中国由来である。しかし前回取り上げた狐の話のように恩義を忘れず人間の味方をしてくれる狐がいたのはなぜか。イザナミも最初はイザナギの妻だったではなかったか。実を言えば、人間にせよ動植物にせよ、始めのうちに与えられていた役割を終えた者はどんどん人間の棲む領域から排除されていった生々しい経過を見て取ることができる。

例えば平安時代、狐もまた京の都や隣接する近江ではあたかも蛇や猿や鹿と同様、身近な存在として人々と共存していた。それは藤原利仁が若い頃、近江に入ってしばらくすると三津浜で狐が出てきて気前よく敦賀まで伝令に走ってくれたエピソードでも明らか。ところが狐は稲作農耕の守護神として崇敬されると同時に、その繁殖力の強靭さから個体数は増える一方だった。すると狐といえども地方に行けば行くほど人間にとって厄介者とされるに至り、遠ざけられ、人間の村落共同体から排除され切り離された瞬間、遂に狐は化けて出るようになる。さらに戦国時代になってなお犬の多い土地として知られていた四国。犬と人間との付き合いは長い。古代ギリシアやメソポタミアなど盛んに酪農が行われていた地域では山羊や牛の世話係として犬は欠かせない村落共同体の一員だった。ところが犬も増えると山間部へ入って野犬化する。村落共同体の仕事から解雇され切り離されたた多数の犬は山間部で復讐の鬼神へ変貌する。戦国時代にその名が出てくる長宗我部氏が四国を制覇しつつあった頃、一般の農村から追放され野犬化した野良犬が多かったことがわかっている。そして野犬化した犬はその獰猛さから「狗神」(いぬがみ)として恐れられるようになっていた。

「土佐国畑(はた)という所には、その土民(どみん)数代(すだい)つたはりて、狗神といふものを持(もち)たり。狗神もちたる人もし他所に行て他人の小袖・財宝・道具すべて何にても狗神の主(あるじ)それを欲(ほし)く思ひ望む心あれば、狗神すなはち、その財宝・道具の主につきて、たたりをなし、大熱(ねつ)懊悩(おうなう)せしめ胸腹をいたむ事錐(きり)にて刺(さす)がごとく、刀にてきるに似たり。此病(このやまひ)をうけては、かの狗神の主を尋ねもとめて、何にても、そのほしがるものをあたふれば、やまひいゆる也。さもなければ久しく病(やみ)ふせりて、つゐには死(し)すとかや。中比(なかごろ)の国守(くにのかみ)此事を聞て畑(はた)一郷(がう)のめぐりに垣結(かきゆい)まはし、男女一人も残さず焼ごみにして、ころしたまふ。それより狗神絶(たえ)たりしが、又この里の一族(ぞく)のこりて狗神これにつたはりて、今もこれありといふ。その狗神もちたる主、死する時、家をつぐべきものにうつるを傍(そば)にある人は見ると也。大(おほき)さ米粒(こめつぶ)ほどの狗也。白黒あか斑(まだら)の色々あり。死(し)する人の身をはなれて、家をつぐ人のふところに飛入(とびいる)といへり」(新日本古典文学体系「伽婢子・巻之十一・土佐(とさ)の国狗神(いぬかみ)付金蚕(きんさん)・P.317~318」岩波書店)

蛇の多い所では蛇神、狐の多い所では狐憑き、猫が多く棲む島などでは化け猫。一方の目を失明することが当り前の職業だった鍛冶師の多い鉱山地帯では「一つ目小僧」。さらにこれらには仏教の浸透条件が深く関わっている。日本のように山間部が多く海が近く平野部の少ない条件のもとでは、とりわけ山間部において仏教は浸透しにくい。それぞれの村は分散していて、その村々はどれも戸数が多くはない。檀家ができても寺院を維持していけるほど裕福でない。「村」と書けばたったの一字で済むけれども、「村」はそれ自体どれを取ってもほとんどすべてが「寒村」に等しい状況でしかない時代は近世江戸期になってなお続いていた。だからこそ熊楠も取り上げているように西鶴が「本朝二十不孝」で描いた熊野参詣の悲劇「旅行の暮の僧にて候」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.219〜225』小学館)は出現するべくして出現した必然的産物として考えるほかないのである。

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