二度目のバルベック滞在以来、アルベルチーヌが獲得し用いるようになった数々の言葉遣いはたいへん豊かに増殖しつづけていた。例えば、とプルーストは例示する。
「『あたしが呼び売りの食べもので好きなのは、ラプソディーのように聞こえてきたものが、食卓に出ると性質が変わって、あたしの味覚に訴えてくることかしら。アイスクリームの場合だと(あたしがこんなことを言うのは、あなたの注文してくれるアイスクリームは、きっといろんな建築の形をしたあの流行遅れの型に入れて凍らせたものだと期待してるからよ)、あたしがアイスクリームの神殿や、教会や、オベリスクや、岩山なんかを食べるときはね、その都度まずはそれを地理の挿絵みたいに眺めて、それからフランソボワーズやバニラの建造物をあたしの喉ごしに冷たいさわやかなものに変えてしまうの』」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.289~290」岩波文庫 二〇一六年)
しばしば耳にする言葉遣いには違いない。「あたしがアイスクリームの神殿や、教会や、オベリスクや、岩山なんかを食べるときはね、その都度まずはそれを地理の挿絵みたいに眺めて、それからフランソボワーズやバニラの建造物をあたしの喉ごしに冷たいさわやかなものに変えてしまうの」。全然<文学的>でない。ごく当り前に流通している世俗の言葉遣いである。しかしそれは<私>が教えたかあるいは<私>から教わった言葉遣いの体系とは別の価値体系に属する言葉によって構築され、とめどなく湧き出しつつ流れるように文脈化されてくるものばかりで、ゆえに<私>を戸惑わせないわけにはおかず、<私>の疑念は極度に高まっていく。アルベルチーヌはそれらをいつどこで誰といる時に身に付けたのだろう。二度目のバルベック滞在以降には違いない。
次の言葉の中で「モンジュヴァンの、ヴァントゥイユのお嬢さんのところ」というフレーズが出てくる。アルベルチーヌのトランス(横断的)性愛が<未知の土地>として<私>に出現し、また<未知の土地>ゆえにアルベルチーヌは<私>の手の届かない世界をも生きており、むしろその世界を堪能しており、<私>に筋違いの嫉妬を起こさせた「モンジュヴァンの、ヴァントゥイユのお嬢さんのところ」。そのためアルベルチーヌを<幽閉・覗き見・監視>することにした、<私>にとっては極めて忌まわしい言葉。それでもなおアルベルチーヌを愛するとすれば<私>は終わりのない嫉妬の苦痛を延々と引き延ばしていくほかないが、だからといって苦痛の延長を何か他の快楽へ置き換えることは必ずしもできない相談ではない。カジノにのめり込むとか投資に夢中になるとか。
記憶に新しいところではトランプの四年間がある。資本主義を加速させ、あらゆる社会保障制度を廃絶させ、社会機構の受け皿になってきた制度を全廃するのだ。すると、あっと言う間もなく<産業・流通・金融>いずれの資本も自滅するか自滅寸前に陥る。それまで資本主義は自滅しないよう慎重この上なく幾つもの<公理系>を付け加えることでスムーズな流れを作りつつ生き延びてきた。ところが加速主義は長い間をかけて打ち立てられた<公理系>を次々と廃絶させた。物事の先の読めないトランプは欧米の加速主義者たちの甘い言葉にまんまと乗せられ、予想通りたった四年でアメリカを滅茶苦茶にすることに成功した。アメリカは死にかけた。プルーストでいえば「<私>は死ぬ寸前だった」ということになるわけだが。同盟国の要人の中には、要人であればあるほど、腹の中でせせら笑っている人間が無数にいたに違いない。いつも親分づらしていい気になってのぼせ上がっているアメリカは、言うまでもなく同盟諸国を常に厳重な監視管理下に置いている。そうせざるを得ない。鬱陶しい親分というものは、常に身近なところにこそ自分の本当の敵がいることをよく知っている。
とはいえ差し当たり<私>が嫉妬の苦痛から逃れたければ、ただ単にアルベルチーヌときれいさっぱり別れればいい。その瞬間、苦痛は消えてなくなる。そして誰か他の相手を見つければ済むことだ。ところが次の恋愛が始まるや再び延々と打ち続くばかりの苦痛の系列が<私>を見舞わずにはおかないだろう。ところが同じ話の流れの中でまったく別の話へ移動していくのがプルースト作品の面白味である。次の箇所。
「『あたしの唇の役目はね、イチゴの斑岩でできたたくさんのヴェネツィアの教会の柱を一本また一本と壊していって、その教会の残骸を信者たちのうえに落下させることなの。そう、そうするとね、そんな建物がどれも、石の広場からあたしの胸のなかへ移動してきて、早くも胸のなかで溶けてゆく冷たいものが鼓動するの。でもね、そんなアイスクリームがなくったって、鉱泉の宣伝ほど刺激的で、喉の渇きを覚えるものはないわ。モンジュヴァンの、ヴァントゥイユのお嬢さんのところじゃ、近くにおいしいアイスクリーム屋はなかったけど、あたしたちお庭で毎日べつの発泡性ミネラルウォーターを飲んでフランスめぐりをしてたのよ、ほら、ヴィシーの水のように発泡性のは、コップに注いだとたん底から白い雲が湧きおこるけど、すぐに飲まないと鎮って消えてしまうでしょう』。しかしモンジュヴァンの話を聞くのは私にとってあまりにも辛いことで、私はアルベルチーヌのことばをさえぎった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.292~293」岩波文庫 二〇一六年)
ここでアルベルチーヌが演じていることは何だろう。種々のミネラルウォーターの名前を列挙し、それらの産地を通過しつつ、移動の物語を語ることだ。「フランスめぐりをしてたのよ」と。同時にそれは物語を移動させる力を持つ。だがこの物語は括弧付きの<物語>であって、脈略というものを決定的に喪失し、逆に増殖する分裂という記号の系列を出現させていく。