白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<習慣>に合わせた「物語」の廃棄/「創意に富んだ斬新な語りかた」と「不可思議な差異」

2022年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

睡眠の残滓を楽しむことは可能である。次々と内心に去来する脈略のない奇怪な会話。睡眠から覚醒への移行段階はごく僅かな時間しかないけれども、そういう楽しみは確かにある。もっとも、楽しみと言うか言わないかは別として。しかしなぜ、この境界線上で起こっていることがそれほど快楽でもあり得るのか。プルーストはいう。「覚醒状態におけるあらゆる物語は、たとえ文学的装飾によって美化されていようと、美の源泉となるあの不可思議な差異をなんら含んでいないからである」と。

 

「要するに物語る方法はさまざまにあるなかで、ただひとつ創意に富んだ斬新な語りかたを楽しんでいたのだ。覚醒状態におけるあらゆる物語は、たとえ文学的装飾によって美化されていようと、美の源泉となるあの不可思議な差異をなんら含んでいないからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.270」岩波文庫 二〇一六年)

 

ここで言われている「覚醒状態におけるあらゆる物語」。それはもはやすでに<習慣>に合わせた「物語」として出現しないわけにはいかない。一方、境界線上で現われる「創意に富んだ斬新な語りかた」には「不可思議な差異」が含まれており、なおかつ「不可思議な差異」なしに「創意に富んだ斬新な語りかた」は決して出現しない。「不可思議な差異」というのはまるで脈略がないということであり、またプルーストがここで言っている「創意に富んだ斬新な語りかた」というのは、それこそサミュエル・ベケット「モロイ」のような、徹底的に分裂したてんでばらばらの<諸断片>が諸商品の無限の系列のように次々接続されつつ繰り返し転変していく種々の状況の推移をいうのだ。そこで何より<習慣>の侵食に用心しなければならないかはもう何度も引用してきた。

 

「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)

 

人間は自分で自分自身を騙す。慣れきった<習慣>に従ってたちまち自分で自分自身に与えられた<仮面>をとっとと置き換える。そうでなければ周囲の目に起きたとは見えないし思ってももらえない。だから<仮面>なのだが、人間は最低でも<人間>という名の<仮面>ばかりは忘れずに思い出すのである。とはいえ睡眠中は自分でもまったくの別人としか思えないほど、普段の<仮面>のことなど破廉恥というほかないほどかなぐり捨てて顧みないけれども。

 

一方、覚醒時の人間はどんな<仮面>に置き換えられているか。覚醒時の<仮面>なら問題一つないのか。まったくそうではない。睡眠中に脈略なく置き換えられる種々の<仮面>の無限の系列を遥かに上回る狡猾さに満ちている。ドゥルーズはニーチェを念頭に置きながらこういう。

 

「いついかなる場合でも、裸のものの真理は、仮面、仮装、着衣のものである。反復の真の基体〔真に反復されるもの〕は、仮面である。反復は、本性上、表象=再現前化とは異なるからこそ、反復されるものは、表象=再現前化されえないのであって、反復されるものはつねに、おのれを意味するものによって意味され、おのれを意味するものをおのれの仮面とし、同時におのれ自身、おのれが意味するものの仮面となる、ということでなければならない」(ドゥルーズ「差異と反復・上・序論・P.62~63」河出文庫 二〇〇七年)

 

プルーストは「アヘンなら」という言葉で始める。それは「アヘンなら」いとも容易に体験できるというわけではなく、アヘンを含む「薬物の助けを借りて眠るのが習慣になっている人は、思いがけず自然に一時間眠るだけで、同じように不可思議で、いっそうさわやかな、広大な朝の光景を発見できる」に違いないと明言する。明言できるの理由は、当時、アヘンなど超強力な薬物を用いて睡眠を得ることが普通に行われていたからだが、一度、そうではない睡眠に身を任せてみればさらに新しい地平が見えるに違いないというのである。薬物の力を借りるのではなく薬物の力を借りないこと。するとどうなるか。

 

「アヘンならその不可思議な差異をつくりだせると言うのはたやすい。だが薬物の助けを借りて眠るのが習慣になっている人は、思いがけず自然に一時間眠るだけで、同じように不可思議で、いっそうさわやかな、広大な朝の光景を発見できるだろう。眠りこむ時刻や場所を変えることで、あるいは人工的に睡眠をつくりだすか、それどころか一日だけ自然な睡眠ーーー睡眠薬を飲んで眠るのを習慣とする人には例外なくいちばん異様な睡眠ーーーに戻るかすることで、人は庭師のつくりだすカーネーションやバラの多様な変種とは比べものにならない数多くの睡眠の変種をつくりだすことができるのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.270~271」岩波文庫 二〇一六年)

 

重要なのは「眠りこむ時刻や場所を変えること」だ。プルーストがいうのは、或る価値体系から別の価値体系への移動についてだ。マルクスはいう。

 

「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫 一九七二年)

 

この文章には或る価値体系から別の価値体系への移動という意味を含む。ヘーゲルが「対内主権」と「対外主権」という言葉で区別して述べたように。

 

「これが《対内》主権である。主権にはなお他の側面、すなわち《対外》主権がある。ーーー過去の《封建的君主政体》には主権をもっていたが、しかし、対内的には君主だけではなく、国家も主権をもっていなかった。国家および市民社会の特殊的な職務と権力が独立の団体〔ギルド〕や共同体に専有され、したがって、全体は有機的組織であるよりはむしろ凝集体であったこともあるし、また、特殊的な職務と権力が諸個人の私的所有物であり、そのために彼らが全体を顧慮しておこなうべきことがらが彼らの臆見や好みにまかされていたということもあった」(ヘーゲル「法の哲学・下・第三部・第三章・二七八・P.257~258」岩波文庫 二〇二一年)

 

「対内主権」と「対外主権」との相互流通、貿易という行為があって始めて差額が生じる。資本主義は世界を手に入れることができたのである。世界を手に入れるためには或る価値体系から別の価値体系への移動が不可避なのだ。世界は常にそれまでとは異なる差異化された世界をどんどん作り出していかなければ資本主義に死を与えることになってしまう。そこに資本主義の綱渡りがある。しかしそんな話の巨大さを、人々はごく身近なところで日々経験している。芸術がそうだ。エルスチールの技術についてこうあった。

 

「エルスチールはどんな花でも、われわれがつねにそこに留まらざるをえない内心の庭へ移植するのでなければ、それを眺めることができなかったからである。エルスチールはこの水彩画のなかに、画家の目で見つめられ、その画家なくしてはけっして知られなかったバラを出現させたのであり、それゆえにこれは、創意工夫に富んだ園芸家と同じように画家の手であらたにバラ科に加えられた新種のバラと言えるものなのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.216」岩波文庫 二〇一五年)

 

エルスチールの技術、その斬新さ。それこそ或る価値体系から別の価値体系への移動の実現であると言わねばならない。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて147

2022年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。昼間はそこそこ晴れていて、時折日差しがまぶしくもありました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

団地の歩道の隅で時々日向ぼっこをしている猫さんがいるのですが、なかなか写真を撮らせてくれません。ところが今日は木の下でうづくまってくつろいでいるのを見かけました。寒くないのでしょうか。

 

「名称:“猫”」(2022.12.25)

 

よく見るとなかなか立派な毛並みです。

 

「名称:“猫”」(2022.12.25)

 

冬の湖西はとにかく日の入が早いものです。見渡せば琵琶湖周辺はすっかり雨雲に覆われています。古墳群へ向かいました。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.25)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.25)

 

あっと言う間に雨がぱらついてきました。湖畔へ降りてきた時はもう対岸の遥か遠くまで雨模様のようでした。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

二〇二二年十二月二十五日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて146

2022年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴時々曇。湿度は6時で84パーセント、9時で72パーセントの予想。湖東方面も晴時々曇の予想。鈴鹿峠は曇りのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

西方向。雲がどっかり乗っかっています。

 

「名称:“山並み”」(2022.12.25)

 

再び湖東方向。日の出の時刻ですが分厚い横雲が広がっています。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

今度は雲の上から再挑戦するようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

少しばかり日をのぞかせました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.25)

 

二〇二二年十二月二十五日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・「もはや自分ではなくなる」/差異化としての睡眠と多元性としての<私>

2022年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

同一性というステレオタイプ(紋切型)についての問い。プルーストは次のようにいう。文字通りの意味で受け取るべきだろう。

 

「そもそも一時間も余計に眠ると、しばしば卒中の麻痺に見舞われたも同然の状態になり、そのあとでは手足の動かしかたを想い出し、口の利きかたを学びなおさなければならない。それには意志の力など助けにならない。眠りすぎて、もはや自分ではなくなるからだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.268」岩波文庫 二〇一六年)

 

同一性はいつも必ず自明な観念だとはまるで限らない。「眠りすぎて、もはや自分ではなくなるからだ」。人間は睡眠によってその都度新しく切断されているし、覚醒してもなお自分は自分だったと思い出して再接続されるまでの間に、身体的同一性への感覚の助けを借りながら徐々に自分へ回帰するほかない。そしてその行為がまさしく再接続でしかない以上、睡眠を通してまるで別の自分へ差異化されているとしか言えない。それはあたかも「流刑地から戻ってきたような気がするばかりだ」。

 

「眠りはかろうじて機械的に感じられるだけで、自覚はされず、まるで水道管のなかにいて蛇口が閉まるのを感じるようなものである。そのあとはクラゲが生よりも生気なき生を余儀なくされ、なにか考えることができたとしても、まるで海底から引きあげられたような、流刑地から戻ってきたような気がするばかりだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.268~269」岩波文庫 二〇一六年)

 

ニーチェから三箇所。

 

(1)「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(2)「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(3)「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

<神は死んだ>とニーチェはいった。マルクスはこういう。

 

「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫 一九七二年)

 

それでもなお自分はいつも自分であると、自明として信じて疑わない人間。そんな人間がどこかにいるだろうか。プルーストは人間というものの脈略のなさを、何度も繰り返し問いかけるし今後もずっと問い続けて止まない。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて145

2022年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。風は相変わらず強いようです。粉雪がちらほら舞ってもいます。

 

「名称:“西近江路”」(2022.12.24)

 

日向ぼっこしているのか餌を探しているのか猫さんがうろうろしていました。

 

「名称:“猫”」(2022.12.24)

 

午後三時頃に湖岸へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

いつものようにストレッチ。これから古墳群へ向かいます。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.24)

 

この大きな雲はおそらく午後一時台に丹波山地上空を通過していたものだと思われます。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.24)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.24)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.24)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.24)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.24)

 

湖畔へ降りてきました。何事もなかったかもような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

二〇二二年十二月二十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。