睡眠の残滓を楽しむことは可能である。次々と内心に去来する脈略のない奇怪な会話。睡眠から覚醒への移行段階はごく僅かな時間しかないけれども、そういう楽しみは確かにある。もっとも、楽しみと言うか言わないかは別として。しかしなぜ、この境界線上で起こっていることがそれほど快楽でもあり得るのか。プルーストはいう。「覚醒状態におけるあらゆる物語は、たとえ文学的装飾によって美化されていようと、美の源泉となるあの不可思議な差異をなんら含んでいないからである」と。
「要するに物語る方法はさまざまにあるなかで、ただひとつ創意に富んだ斬新な語りかたを楽しんでいたのだ。覚醒状態におけるあらゆる物語は、たとえ文学的装飾によって美化されていようと、美の源泉となるあの不可思議な差異をなんら含んでいないからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.270」岩波文庫 二〇一六年)
ここで言われている「覚醒状態におけるあらゆる物語」。それはもはやすでに<習慣>に合わせた「物語」として出現しないわけにはいかない。一方、境界線上で現われる「創意に富んだ斬新な語りかた」には「不可思議な差異」が含まれており、なおかつ「不可思議な差異」なしに「創意に富んだ斬新な語りかた」は決して出現しない。「不可思議な差異」というのはまるで脈略がないということであり、またプルーストがここで言っている「創意に富んだ斬新な語りかた」というのは、それこそサミュエル・ベケット「モロイ」のような、徹底的に分裂したてんでばらばらの<諸断片>が諸商品の無限の系列のように次々接続されつつ繰り返し転変していく種々の状況の推移をいうのだ。そこで何より<習慣>の侵食に用心しなければならないかはもう何度も引用してきた。
「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)
人間は自分で自分自身を騙す。慣れきった<習慣>に従ってたちまち自分で自分自身に与えられた<仮面>をとっとと置き換える。そうでなければ周囲の目に起きたとは見えないし思ってももらえない。だから<仮面>なのだが、人間は最低でも<人間>という名の<仮面>ばかりは忘れずに思い出すのである。とはいえ睡眠中は自分でもまったくの別人としか思えないほど、普段の<仮面>のことなど破廉恥というほかないほどかなぐり捨てて顧みないけれども。
一方、覚醒時の人間はどんな<仮面>に置き換えられているか。覚醒時の<仮面>なら問題一つないのか。まったくそうではない。睡眠中に脈略なく置き換えられる種々の<仮面>の無限の系列を遥かに上回る狡猾さに満ちている。ドゥルーズはニーチェを念頭に置きながらこういう。
「いついかなる場合でも、裸のものの真理は、仮面、仮装、着衣のものである。反復の真の基体〔真に反復されるもの〕は、仮面である。反復は、本性上、表象=再現前化とは異なるからこそ、反復されるものは、表象=再現前化されえないのであって、反復されるものはつねに、おのれを意味するものによって意味され、おのれを意味するものをおのれの仮面とし、同時におのれ自身、おのれが意味するものの仮面となる、ということでなければならない」(ドゥルーズ「差異と反復・上・序論・P.62~63」河出文庫 二〇〇七年)
プルーストは「アヘンなら」という言葉で始める。それは「アヘンなら」いとも容易に体験できるというわけではなく、アヘンを含む「薬物の助けを借りて眠るのが習慣になっている人は、思いがけず自然に一時間眠るだけで、同じように不可思議で、いっそうさわやかな、広大な朝の光景を発見できる」に違いないと明言する。明言できるの理由は、当時、アヘンなど超強力な薬物を用いて睡眠を得ることが普通に行われていたからだが、一度、そうではない睡眠に身を任せてみればさらに新しい地平が見えるに違いないというのである。薬物の力を借りるのではなく薬物の力を借りないこと。するとどうなるか。
「アヘンならその不可思議な差異をつくりだせると言うのはたやすい。だが薬物の助けを借りて眠るのが習慣になっている人は、思いがけず自然に一時間眠るだけで、同じように不可思議で、いっそうさわやかな、広大な朝の光景を発見できるだろう。眠りこむ時刻や場所を変えることで、あるいは人工的に睡眠をつくりだすか、それどころか一日だけ自然な睡眠ーーー睡眠薬を飲んで眠るのを習慣とする人には例外なくいちばん異様な睡眠ーーーに戻るかすることで、人は庭師のつくりだすカーネーションやバラの多様な変種とは比べものにならない数多くの睡眠の変種をつくりだすことができるのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.270~271」岩波文庫 二〇一六年)
重要なのは「眠りこむ時刻や場所を変えること」だ。プルーストがいうのは、或る価値体系から別の価値体系への移動についてだ。マルクスはいう。
「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫 一九七二年)
この文章には或る価値体系から別の価値体系への移動という意味を含む。ヘーゲルが「対内主権」と「対外主権」という言葉で区別して述べたように。
「これが《対内》主権である。主権にはなお他の側面、すなわち《対外》主権がある。ーーー過去の《封建的君主政体》には主権をもっていたが、しかし、対内的には君主だけではなく、国家も主権をもっていなかった。国家および市民社会の特殊的な職務と権力が独立の団体〔ギルド〕や共同体に専有され、したがって、全体は有機的組織であるよりはむしろ凝集体であったこともあるし、また、特殊的な職務と権力が諸個人の私的所有物であり、そのために彼らが全体を顧慮しておこなうべきことがらが彼らの臆見や好みにまかされていたということもあった」(ヘーゲル「法の哲学・下・第三部・第三章・二七八・P.257~258」岩波文庫 二〇二一年)
「対内主権」と「対外主権」との相互流通、貿易という行為があって始めて差額が生じる。資本主義は世界を手に入れることができたのである。世界を手に入れるためには或る価値体系から別の価値体系への移動が不可避なのだ。世界は常にそれまでとは異なる差異化された世界をどんどん作り出していかなければ資本主義に死を与えることになってしまう。そこに資本主義の綱渡りがある。しかしそんな話の巨大さを、人々はごく身近なところで日々経験している。芸術がそうだ。エルスチールの技術についてこうあった。
「エルスチールはどんな花でも、われわれがつねにそこに留まらざるをえない内心の庭へ移植するのでなければ、それを眺めることができなかったからである。エルスチールはこの水彩画のなかに、画家の目で見つめられ、その画家なくしてはけっして知られなかったバラを出現させたのであり、それゆえにこれは、創意工夫に富んだ園芸家と同じように画家の手であらたにバラ科に加えられた新種のバラと言えるものなのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.216」岩波文庫 二〇一五年)
エルスチールの技術、その斬新さ。それこそ或る価値体系から別の価値体系への移動の実現であると言わねばならない。