昭和43年(1968年)11月20日、瓢湖に錦鯉3千尾とヘラブナ約500キログラムを放流。
錦鯉は旧鹿瀬町日出谷地方のもので、体長は平均約10センチ。 瓢湖に錦鯉がいたんですね。
昭和43年(1968年)11月20日、瓢湖に錦鯉3千尾とヘラブナ約500キログラムを放流。
錦鯉は旧鹿瀬町日出谷地方のもので、体長は平均約10センチ。 瓢湖に錦鯉がいたんですね。
1967年(昭和42年)3月21日、瓢湖に「白鳥供養碑」建立。高さ2.85m。
碑文の詩は、水原中学校の生徒。
2019年6月15日撮影
昭和41年ごろ、田植は まだ手植えでした。
昭和41年(1966年) 瓢湖にアヤメ園が併設された。 湖の南側約300mにわたり、約2000株が植えられた。
昭和40年ごろの写真。 瓢湖にたたずむ美女。20年前の終戦年から時代の雰囲気が大きく違います。 写真左奥上にある「白鳥の像」。 像の奥にある風景が現在と大きく違います。現在の方が「観光地」を感じます。
一枚目の写真の時代、昭和39年。 新潟国体の旗リレーが瓢湖近くの西外城地区を力走。この年、新潟地震がありました。東京オリンピックがありました。 道路はまだ、舗装されていません。
この頃(昭和37年)瓢湖近くの西外城の「仁和加」。 1枚目の写真撮影頃は、こんな時代でした。
2019年の瓢湖 あやめまつりは、本日6月8日(土)から6月23日(日)まで開催。6月16日(日)は、盛大です。
ショーも、16日に開催。
6月15日の阿賀野市のHPから 悪天候のため、16日のメインイベントは中止になったそうです。
1965年(昭和40年) 水原町教育委員会は、映画「白鳥よ無事に帰れ」を自主制作した。16ミリの白黒映画で約20分の映画。
この年の冬に飛来した白鳥は最高253羽。 去年より100羽少なかった。
2代目白鳥おじさん・吉川繁男が出演。
1960年(昭和35年)8月21日、瓢湖に白い白鳥像を建立。 作者は新潟市の渡辺徹さん。
像は、台石を含め高さ7m。羽を広げた長さ4mの人造石作り。台石には、渡辺元厚相の碑文がはめこまれている。
初代 白鳥おじさんが亡くなった翌年の話です。
1959年(昭和34年)12月15日 初代 白鳥おじさんの吉川重三郎さん死去(享年64才)。
12月28日に生前の功労から盛大に白鳥葬を営んだ。 2代目 白鳥おじさんは、初代の同居息子さん。
1959年(昭和34年)3月4日、瓢湖のオニバス群生地が新潟県天然記念物に指定される。
福島潟のオニバスは見たことがありますが、瓢湖のオニバスは見たことがありません。どの辺りにあるのでしょうか。
昭和29年(1954年)3月20日、瓢湖が国天然記念物に指定されました。 昭和25年(1950年)に白鳥が飛来。吉川重三郎氏(初代 白鳥おじさん)が白鳥の餌付けに5年の努力をし、餌付けに成功。
白鳥の飛来数 昭和29年に33羽、昭和35年に312羽、昭和41年に453羽、昭和45年に1019羽。
上の写真は、初代白鳥おじさん(吉川重三郎) 上の写真、白鳥渡来地の標柱
瓢湖が天然記念物に指定されたころの写真。水田は牛で耕し、秋の米の出荷は牛車や馬車で農協の倉庫まで運んでいました。トラックではありません。そんな時代に吉川さんが白鳥の餌付けをし、天然記念物になりました。
この資料は、「郷土史 外城物語 平成23年8月発行」から、お借りしています。
昭和26年(1951年) 瓢湖でボートに乗る女性と子。終戦前(昭和20年より前の時代)と比べると、「平和」な時代になった・・と、感じます。「のどか」さを感じます。
この頃は、瓢湖でボート遊びができたのですね。
昭和23年のじゅんさい採り。瓢湖でじゅんさい採りをしていたのは、何時頃まででしょうか?
1950年3月10日、やっと ついに、瓢湖に白鳥が飛来しました。白鳥数十羽が飛来し、地元を驚かせました。
白鳥は天然記念物に指定されている。飛来した翌日に、津田林務課長が白鳥優遇策を研究することになった。
昭和24年(1949) 水原観桜会、瓢湖に桜樹を植える。以下、下の文をお読みください。
戦時中、切り倒された瓢湖の桜並木が復活しました。この時代、「瓢湖」といえば「桜」だったんですね。