阿賀野市ブログ応援隊

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阿賀野市の「分田七郎俊長」その5

2013年07月11日 | 歴史

 この地図は、享和2年(1802)の越後国全図の一部(分田地区など)。 この年、2月に蝦夷奉行を置き5月に箱館(函館)奉行と改称。「東海道中膝栗毛」初版刊行。幕府、伊能忠敬に陸奥・出羽・越後諸国の測量を命じる(伊能忠敬が全国測量を開始したのは1800年)。私の住む笹神地区の集落の位置が現実とこの図面とで違うのが数ケ所あります。あまり正確な地図でないと考えます。阿賀野川と周辺の集落の位置が、前に投稿した位置と違いがあります。阿賀野川の大洪水は、天文5年(1536)、寛永8年(1631)なので、どちらかの地図が間違っていると思います。

 私の考えでは、この図面を参考に伊能忠敬が測量をしたと思います(越後の測量を開始したのが、1802年。この図面が1802年に完成していたこと。伊能忠敬が作成した地図はこの写真のような図面でないので)。きっと、伊能忠敬は、あそこも ここも違っている、等と話しながら測量していたと思います。

 ただ、この図面を見ると分田七郎俊長が住んでいた分田(地図では文田)から海に直接行けたようなので、分田七郎俊長の時代も直接海に行けたのでしょう。人が集まる位置。そのため山賊のような人間たちも集まる。それを分田七郎俊長が退治したと思います。証明する資料はありませんが、大きな間違いはないと思います。以下、次回に続きます。  管理人

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