鉱員などの流入で人口も増加。大正時代からずっと2千人台で推移してきたが、昭和15年(1940年)の国勢調査で初の3千人台になった。
活況は戦後になっても続いた。昭和26年には、会社に診療所・保育所・映画館などの厚生施設があり、野球部やカメラ部などの活動も活発だった。 「鉱山まつり」も開催された。祭りの時は赤谷小学校の全児童をトラックで招待した。日曹は、従業員の子弟の為に自己資金で飯豊小学校を建てたが、その前は日曹、日鉄から80人くらいの小学生がトラックで通学していた。
人口もピークの昭和25年(1950年)には4,262人になった。鉱山のほかに鉄道官舎、東北電力の社宅もあった。ダム建設などの工事関係者は住民票を移さない人もいたから、実数はもっと多かった・・そうです。
しかし、昭和26年の赤谷炭山の閉山で人口は再び3千人台に。昭和43年には飯豊鉱山閉山。昭和50年(1975年)には、とうとう日鉄も決め、現在(昭和59年。1984年)の鉱山新設になった。
職場を失った人々は山を去った。地元の若者も町場に移住し始めた。 昭和58年(1083年)末には人口が1,212人。次回に続きます。