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「越後上杉房定と関東」 講師・森田真一

2024年08月31日 | 歴史

2024年3月2日 新潟市中央区にある新潟県立文書館で(上と下)の講演がありました。

講師の森田真一さんは、群馬県の人で群馬県立歴史博物館 主幹・学芸員。 新潟大学大学院卒。80名が参加しました。

何かで「水原町は山内上杉家」が治めていた・・という文書を読みました。「山内上杉家」というのが理解できなく、上記の講演に行きました。正直、話の内容は良く理解できませんでした。「上杉の時代」を良く知っていないと理解不能(私の知識では)。上杉といえば上杉謙信、上杉景勝くらいしか知らないのに、関東の話や京都の話が出てきます。会場でA4版6ページの資料を貰いました。

ウイキペディアによると、上杉房定(うえすぎふささだは永享3年(1431年) 上条上杉家の上杉清方の子として誕生。室町時代中期から戦国時代にかけての守護大名。越後国・信濃国守護。越後上杉家6代当主。 15世紀後半の約46年という長きにわたって越後を支配し、関東で享徳の乱や長享の乱を戦う過程で守護領国を完成させた。 1450年に房定は京から越後へ下向し守護代長尾邦景・実景父子を攻めたあ。府内での政権掌握に成功した房定は京都に戻ることなく、自ら越後の支配に乗り出した。1451年(宝徳3年)3月、下郡の国人に対する示威行動のように弥彦神社へ参拝した。「鎌倉大草紙」には<越後の守護人上杉相模守房定>が永享の乱後の関東地方の混乱鎮圧のために、前鎌倉公方・足利持氏の遺子永寿王丸の関東復帰を長年にわたって幕府に歎願し、これを実現させたと記されている(但し当時の越後守護は房朝である)

享徳3年(1454年)12月に成氏が房定の従兄で山内上杉家の関東管領・上杉憲忠を暗殺したことをきっかけに享徳の乱が勃発する。・・・房定は以後16年にわたって関東に滞在し、各地で成氏方の諸将との戦いに費やすことになる。

・・・文正元年(1466年)2月、房顕が子供を遺さず陣没した。長尾景信は房定の子を後継者に吹挙したものの、山内上杉家中にこの事に反対する勢力との深刻な対立があり、房定はなかなか承諾しなかった。しかし結局は将軍・足利義政の後押しで次男を養子に出すことを承諾、関東管領に就任させている。・・・関東への影響力も増し、実質的に越後上杉家は享徳の乱における上杉方の惣大将になった。

・・・~・・・文明18年(1486年)3月に房定は一国の守護としては破格の待遇である従四位下相模守に任じられた。・・・明応3年(1494年)10月17日死去。享年64歳。家督は末子・房能が承継した。

※笹神村の山浦家(笹岡城)は越後上杉の一族。 ※笹岡の千坂は上杉の部下 ※講師の森田真一さんは、「笹神村史 通史編 2004年発行」で、(戦国の動乱)を執筆。上杉家の説明が記載されています。ほかに5冊、著書・共書があります。 ※「善照寺文書」とは刈羽郡刈羽村寺尾に所在する真言宗寺院。約40通の中世文書群。

山内上杉家(やまうちうえすぎけ)→ 室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。上杉氏4代当主・上杉憲顕(初代関東管領)に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いたことに因む。 室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母・上杉清子は上杉家出身(2代当主・上杉頼重の子)であり、上杉家は室町幕府の重職・関東管領を世襲した。上杉氏は公家である藤原氏の支族であるが、武家の足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通して関東で勢力を拡大した。15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った景虎は関東御征西に赴き、10万の軍勢で小田原城を包囲した。その後、北条氏の息子を養子に取り、自分の名・上杉景虎を与えている。豊臣政権の五大老の一人であった17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。 水原町に水原常陸介親憲がいた時代、水原城(館)より、笹岡城の方が格が上だったようです。


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