今日2019年8月14日、暑いです。上越市は、40.3度の気温です! 全国一の暑さです。
2017年2月17日 午後3時13分、 私の家族が神奈川県小田原市・曽我梅林で撮影。
35,000本の白梅があり、梅の名所です。
(上の写真) 中央 青い矢印の先の拡大写真が、下の写真。
(上の写真) 右下の青い矢印の先の、拡大写真が下 オーブの一種だと思います。「精霊」と呼ぶべきかも。
2020東京オリンピック・パラリンピックを記念した100円硬貨(第2次)6種類が2019年7月24日から交換が始まった。 図柄は「空手・スケードボード・スポーツクライミング・サーフィン・ウエイトリフティング、パラリンピックはゴールボール。交換した100円を記念に投稿しました。
昭和50年(1975年)2月20日、2代目白鳥おじさん・吉川繁男さんが本「瓢湖白鳥物語」を東京都(株)三省堂から出版。
2月23日、出版記念会が瓢湖脇にある古川支店(現在の湖四季。改築前の建物)で開催。
ローゼ・レッサー女子や上野動物園水島課長など県外からも含め、約150人が出席して盛大に行われた。
私の知人が高校生の時(昭和46年・1971年)、高校某全国大会で岡山県に行った時、偶然会った鳥取県の女子高校生に新潟県水原町 白鳥の来る瓢湖の近くに住んでいると言ったら、「瓢湖」知っていますと言われ、瓢湖が全国で有名なことを知ったそうです。 この本も、そんな有名な時代だから出版されたのでしょうか。 現在 「瓢湖」のような存在は、日本で多くある気がします。
昭和43年(1968年)の「国鉄詰問委答申」(全国83線区、2600キロ廃止)は、猛烈な反対運動に遭い、なにも効果があがらないまま葬り去られた。 しかし、昭和39年(1964年)に赤字転落した国鉄は、その後も雪だるま式に赤字額を増してゆく。
数回にわたる再建案の中で国鉄は、都市間・大都市圏旅客輸送及び大量貨物輸送分野以外から撤退する方針を明確にしていく。 そのたびに反対運動でつぶされたが、国鉄経営は赤字の泥沼に首までつかってしまった。
昭和55年(1980年)11月、臨時国会で地元と調整がつかなくても廃止できる「見切り発車」条項を盛り込んだ国鉄再建法案が可決される。 赤谷線の廃止は、決定的になった。 (この新聞の誌名記録無し)
※新発田市図書館を検索すると赤谷線に関しての本は、赤谷線廃止の年、1984年の写真集と1965年の新発田市役所作成の本、その他数冊あるようですが新聞社作成の本は無いようです「※私の検索が下手で、実際はあるかもしれませんが」。 この新聞記事を書いた社からの本があったら素晴らしい・・と思うのですが。
1974年(昭和49年)1月11日から、瓢湖の白鳥観察所が建設され一般に開放された。瓢湖の奥にあります。この建物は県の協力を得て建設。
建設総工費は1,191万円。 建物の外観は北欧の山小屋スタイル。
新白線建設に最も熱心だったのは三川村。同盟会の経費も、新発田市と同格の30%を負担し、村議会に独自の新白線促進特別委員会を作った。当時の三川村は、冬は陸の孤島だった。地元民は赤谷駅まで約6キロメートルの道を歩き、新発田へ行った。
新産業都市に新潟地区も指定され、新潟東港がようやく建設されようという時代だった。 その後背地構想を四市町村とも胸算用し、新発田市は「東蒲原郡をわが商圏に」と思い、三川村は「生活も便利になる。働き口も増える」と思った。
同盟会は一丸となって、走った。年2、3回ペースで東京に行き、当時の田中角栄自民党幹事長、運輸大臣、国鉄総裁・・と、一大陳情合戦を展開。 しかし、努力はむくわれなかった。「鉄道新線建設促進全国協議会」にも入会したが、東港建設はさっぱり進まず、千葉県鹿島などとは勢いが違っていた。
昭和43年(1968年)、国鉄詰問委が初めて赤字線廃止を打ち出し、その中に赤谷線も入っていた。 せっかく盛り上がっていた運動も急速にしぼんでいった。 もし、新白線が完成していたら三川村から新発田市に通勤する人が増え、村上・新発田から会津若松へ旅行者が増えたでしょう。でも、今の時代からみると、やはり廃線が正しかった気がします。 この10年後くらいには車通勤が主になっていましたから。
昭和48年、この頃の赤谷線利用者は通勤通学客がほとんど。 東中学校前乗降場は、中学生の「専用駅」として昭和48年(1973年)に造られた。 次回に続きます。「この新聞記事、誌名の記録無し」