新白線建設に最も熱心だったのは三川村。同盟会の経費も、新発田市と同格の30%を負担し、村議会に独自の新白線促進特別委員会を作った。当時の三川村は、冬は陸の孤島だった。地元民は赤谷駅まで約6キロメートルの道を歩き、新発田へ行った。
新産業都市に新潟地区も指定され、新潟東港がようやく建設されようという時代だった。 その後背地構想を四市町村とも胸算用し、新発田市は「東蒲原郡をわが商圏に」と思い、三川村は「生活も便利になる。働き口も増える」と思った。
同盟会は一丸となって、走った。年2、3回ペースで東京に行き、当時の田中角栄自民党幹事長、運輸大臣、国鉄総裁・・と、一大陳情合戦を展開。 しかし、努力はむくわれなかった。「鉄道新線建設促進全国協議会」にも入会したが、東港建設はさっぱり進まず、千葉県鹿島などとは勢いが違っていた。
昭和43年(1968年)、国鉄詰問委が初めて赤字線廃止を打ち出し、その中に赤谷線も入っていた。 せっかく盛り上がっていた運動も急速にしぼんでいった。 もし、新白線が完成していたら三川村から新発田市に通勤する人が増え、村上・新発田から会津若松へ旅行者が増えたでしょう。でも、今の時代からみると、やはり廃線が正しかった気がします。 この10年後くらいには車通勤が主になっていましたから。
昭和48年、この頃の赤谷線利用者は通勤通学客がほとんど。 東中学校前乗降場は、中学生の「専用駅」として昭和48年(1973年)に造られた。 次回に続きます。「この新聞記事、誌名の記録無し」