#自己愛過剰 と #不安過剰
#聖書の言葉 #単独者の恵み #力がある #偽薬効果 #母親からのキスの効果 聖書の言葉: ἐγγίζω 近づく 「神の国」の真実と,その跳びあがるほ......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
① EnpediaをGoogle検索
② 「Enpedia内の検索」で「発達トラウマ障害」を検索
の二段階の検索が必要です。
(Google検索では、「発達トラウマ障害」は検索しにくい操作【おそくら、内閣府情報調査室の仕業,です】が施されています)
をご参照ください。
Childhood and Society から。 p.71,第2パラグラフを残します。
今朝は、p.77の,第2パラグラフから。
私どもが地図にしようとしているのは,いのちの家が目の前に出来ることを賛美することです。それは,人と相対して一心同体に成ることに気付く気付きによれば,内的な促しは,「心から優しい聖書の神様」の響きが共に働いてくださることや,周りの大切な人たちの反応と共に,打てば響く出会いを作り出す時です。
3. 帯,善い振舞い と 感覚
A. 口と五感
いのちの家が目の前に次第に出来ることを賛美して、打てば響く出会いの最初が起こるのは,生まれたばかりの赤ちゃんが,お母さんの身体と一体だったところからお別れして,お母さんの胸に置かれた時です。お口で身体に取り入れるという,生まれながらに身に着けている,大なり小なり,「聖書の神様のいのちが一巡する結界の置かれた」力は,お母さんの胸と一体になりますし,その赤ちゃんにおっぱいをやり,赤ちゃんを快く迎える,大なり小なり,「聖書の神様のいのちが一巡する結界の置かれた」力や2人を1つにする心の働きと一体になります。母子が一体になる時,赤ちゃんは,お口で生き延びますし,お母さんを大切にしますし,お母さんは,胸で生き延びますし,赤ちゃんを大切にします。お母さんにとって,こうするのは,自分が他の人達から手ごたえを感じている,(訳注:①)相手を大事にする生き方と,相手を大事にすることに伴う(訳注:➁)誇りと,(訳注:③)キリストが繰り返し下さる約束とに忠実に従うことなんです。しかしながら,赤ちゃんにとって,お口のあたりは,歩み寄って隣人に成るという最初の創造的な生き方,すなわち,お母さんと一体になるという最初の創造的な生き方が,三昧になる唯一の場です。赤ちゃんはいまここで,自分が心響かせることを大事にすることを感じ取る入口に,あらゆる心からの優しさを「お母さんが」運んでくれるのを頼りにしています。というのも,少なくとも数週間,赤ちゃんが反応できるのは,あ母さんが目の前に居る場合その時だけだからです。創造に相応しく下に立つおっぱいを赤ちゃんが歓んで吸い、また、吸うことが出来るにつれて、お母さんたちが出す気を飲み込むに連れて,間もなく、赤ちゃんは視野に入るものを目で見る様になります(それはまるで,出会いにしがみ付くことができるようなれば,正しい促しがあると,手を広げたり閉じたりするみたいに)。赤ちゃんは,肌がいいぞと言うものを取り入れているように思います。しかし,こういったすべての五感の感度はとても脆いものです。赤ちゃんの最初の体験が単に赤ちゃんが生き続けることが出来る様にするのではなく,赤ちゃんの敏感な息吹のリズムと消化のリズムと循環器のリズムの息を合わせるのに役立つことを確かにするためには,赤ちゃんの感性にそのままでいいよと伝えることは,ちょうど善い強さと善いリズムがなくてはならない,ということです。ちょうど善い強さと善いリズムがなければ,赤ちゃんが下に立ち母親を敬う気持ちは,たちまち,全てに壁を作ってしまいます。ハッキリするのは,赤ちゃんが死んだり,発達ができなかったりしないように,赤ちゃんが生きていくうえでなくてはならないことと,あってはならないことですが,思うまま自由にやれることは増えてきます。様々な子育てでは,役立つことや必要な仕事を勝手に決める特権を悪用されます。赤ちゃんは一歳になるまで,1日の大部分,おくるみにすっかり包まれていなくちゃと思う人もいるでしょう。でも,赤ちゃんは、自分の眼を掻き出さない限り,泣きだした時にはいつでも,あやされ,おっぱいを与えるべきだと考える人もいるでしょう。また,出来るだけ早い時期に素晴らしい手足を自由に動かせると実感すべきだと思う人もいれば,文字通り赤ちゃんの顔が青ざめるまで,ご飯は待つのが当たり前と思う人もいます。子育てに対する見方全ては,子どもを創造するのは何のためであり,子どもと共に心から自由になるにはどうするのか,という問いに私どもがどう応えるのかに拠ります。次の章で申し上げますが,内的に促す英知があるみたいです。曖昧模糊にみえる子育ての条件の中に,無意識の(訳注:実に不可思議な)計画があんですよ。聖書の神様の結界では,同じものを生み出す子育ては,子どもの頃に呼び覚ました願いと恐れと激しい怒りが、晩年、バランスをひどく失うことになります。「子どもにとって、善いこと」や,子どもに起こるかもしれないことは,その子ども自身が何になろうとイメージしているのか,どこに行こうとしているのか,に拠りますね。
身体に中に入れる習慣がこの舞台で幅を利かせている間、口を聖書の神様の結界にする身体の働きは,お役に立つ習慣として,あらゆる音色がいまここにあることを繰り返し求めます。こうして,この身体に中に最初に入れる習慣には顎と歯の締め付けがあります(取り入れる第2の習慣です)。それに、吐き出す場合もありますし(出す習慣です),唇が閉まる場合もあります(取っておく・我慢する習慣です)。元気のいい赤ちゃんの場合,頭や首を突っ込んできやすいことさえ、あると分かります。頭や首が乳首に,いわば,胸に釘付けになりやすいんです(最初に心魅せられたこと)。人を助ける生き方は全て,お母さんにいつも共に居て貰った子ども等の中に生まれるものです。人を助ける生き方は,他では,見つかりませんから。それでも,人を助ける生き方も,最深欲求が欠けたりバラバラになったり,食べ物の源であり,初めの歓びの源の母親と互いに大事にし合うことが欠けたりバラバラになったりすることもあります。
1つの帯が全ての習慣と眼には見えないやり取りをしていることは,図表にして一番下に示しました(図1)。図1の一つ一つの大きな円は,まっとうに心響かせることが出来る生物を示します。その円の中に、私どもは3つの帯を区別します。(a)「最初の実感」って,表情にも,聖書の神様のいのちの流れの下に立ち心響かせることにも,含まれます。(b)「お尻」は出すのに心響かせます。(c)性器(身体の位置が近いというんではなくて,反応が一貫しているところが強調されます。たとえば、尿道は、排せつ機関であると同時に、性感帯でもあり,内なる力がどう動くかで働きが決まります)。
一つ一つに小さな円が心響かせる生き方を示す
1=とりいれ 1
2=とりいれ 2
3=我慢
4=出す
5=強く出す
最初の口の舞台では,(Ⅰ)最初に取り入れる生き方が,口の一帯を差配します。しかしながら,この舞台は,むしろ,「最初にスピリットを取り入れたと感じる」時期と呼びましょう。最初にスピリットを身体に取り入れる生き方は,時に適って,聖書の神様が見守って下さる結界の行動を司ります。五感の響きと皮膚は感じやすいし,ドンピシャリの内的促しが必要です。最初にスピリットを身体に取り入れる生き方を創造する創造は,初めの場に集中する所から身体の表面の感じ取る場全てに至るまで,図1のⅠ₁の大きな円の線で示されます。
その他の円(図1の2,3,4,5)は,副次的な生き方を示しています。それぞれが,第2の初めにスピリットを取り入れる生き方(噛み切る生き方),最初に入れたままにする生き方,最初に出す生き方,最初に強く吐き出す生き方です。これらの生き方は,ひとりびとりの善い状態に応じて,適宜大切になります。しかし,これらの生き方は,初めにスピリットを身体に取り入れる生き方の下にあります。ただし,赤ちゃんの身体のある部分が,世話をするお母さんとが互いに育て合うことが妨げられなければ、のお話しです。妨げられるのは,赤ちゃんが心身の仲をコントロールできない場合と,お母さんが赤ちゃんに心響かせない場合です。
赤ちゃんが身体の内側でコントロールできない一例は,幽門けいれんです。幽門けいれんになると、オッパイを飲んでもすぐに吐いてしまいます。このような場合,最初のスピリットを取り入れる生き方は,聖書の神様のいのちが一巡する結界が2人を招き入れるところで生まれます。このようなケースの人が常々体験しているのは,重症の場合や粗末な育ちの元では,ひとりびとりの心の向きを永遠に決めてしまうだろうということです。重症の場合や粗末な育ちの結果は,現状に甘んじる生き方になります。すなわち,最初のスピリットを締め出すと,何もかもが信頼できなくなってしまいます。入ってくるものは何一つ当てにならないからなんです。
互いに大切にし合うことが,湧き上がった歓びで満たされる源に母親が成り損ねて出来なくなるは,お母さんがいつもオッパイを引っ込めることに出ますから。と申しますのも、このお母さんが大人になってこなかったからですし、大人になれないかもと思うだけで怖いからなんです。こういった場合,初めにスビリットを取り入れる力は,思うままに吸うことに夢中になるんじゃなくて、成熟せずに、バラバラになります。私どもが現場でものがそっと教えてくれることが多いのは,バラバラな立ち位置が、人と上手に関われない、一番の元凶になっているということです。手に入れたいと願うと、歓びの元のお母さんは引っ込んでも,すぐに,掴んで手に入れます。掴めば掴むほど,歓びの元のお母さんそのものが決まって逃げ去りますしね。しかし,現場からキリストに従う生き方へ心を向けましょう。
子どもが気が付き,響き合い,応えることが出来る範囲が広くなれば,自分を育て,引き出してくれるキリストに出会います。キリストに出会うからこそ,人間が生きる根源的な品位のある生き方が身につくわけです。キリストとの出会いも、品位のある生き方も、ひとりびとりを確かめる生き方にも,人が育つのを確かにする生き方にも、あまりすよね。こういった地に足が付いた生き方は、「初歩的な」英語に見事に表現されています。品位のある生き方が「初歩的な」英語に見事に出てくるのは,言葉が人のやり取りする生き方を定義する時です。ですから,大きな慰めになることですが,一番ウソのない英語にここで戻りましょう。新たにラテン語の組み合わせるんじなくてゃ。
「手に入れる」(「とってくる」という意味ではない時)とは,与えられたことを受け取り受け容れることです。与えられたことを受け取り受け容れるのが,人と関わる人生で最初の正しい生き方です。そう聞くと、実際やってみるよりも、容易い御用のようにも,聞こえます。人と関わる人生で最初の正しい生き方では,母親が内なるスピリットを繰り返し振り返ることが,その母親の子育てする生き方を全うにしてくれます。
ハッキリしていることは,赤ちゃんがお母さんと互いに大切にし合う仲で与えられていることを,心から歓んで受け取り受け容れることに,最高に,完璧に,不動にされ心から自由になる生き方がある、ということです。そのお母さんは,与えられていることを受け取り受け容れるスピリットを育て,ピッタリ一体になる結界に,赤ちゃんを送り届けます。それはちょうど,お母さんが,与えるスピリットを育て,ピッタリ一体になっているのと,ピッタリ同じです。この母子がビッタリ一心同体に成ることには、互いに大切にし合う歓びという聖書の神様が創造を始めた最初の気高さがあります。互いに大切にし合う歓びは、「最初の」という言葉が気高く形作るものです。口と乳首が、温もりと互いに大切にし合うことを創造する光の唯一無二の中心に見えます。温もりと互いに大切にし合うことを創造する光こそ,思うままに,陽気で楽しく歓びながら、応えると、光る光です。思うままに,陽気で楽しく歓びながら、応えると光るのは、口や乳首だけではありません。赤ちゃんもお母さんもその光で輝くんです。思うままに,繰り返し、互いに相手を自由にすることが、このように創造されることは,心から大事にしてくれる相手を初めて体験することです。《与えられたことを心から歓んで受けとり受け容れること》の中に,どなたかにその人がそうしたいと思ってきたことを《その人が出来る様にして差し上げること》の中に,その赤ちゃんも,自分が《与える人になる》必須の土台を育てることになります。《与える人》に成れませんと,脅しと気紛れなウソで相手をコントロールしよう、ということになりますね。《与える人》に成れないと,互いに相手を大切にし合うことができません。大人がになれないと、その赤ちゃんは、関係のど真ん中を吸っても手に入れることができないことを、あれこれと試して手に入れようとします。そういう赤ちゃんは、本当の自分を見失って,手下を探し,世間を恨むようになります。そういうお母さんも,何かを生み出そうとアレコれと赤ちゃんに強制するようになります。たとえば、オッパイを赤ちゃんの口に無理に含ませだり、オッパイを挙げる時間や掛け声をイライラと変えて見たり,初めから厄介なオッパイの時間の間ずっと緊張していたり…。
もちろん,こういった生き方から心から自由になるのを追い求める道,互いに大切にし合うのを追い求める道もあります。それも,赤ちゃんに善いおしゃぶりを挙げることで。それからまた,最初の感じ取るもの以外から来る満足から、最初に受け止めそこなったことを埋め合わせることを,追い求める道もあります。私どもが最初に受け止めることって,抱っこしてもらい,肌の温もりを感じ、微笑で見つめられ、話し掛けられ、ユラユラと揺らされて,お腹の底から湧き上がる歓びを感じる、ということです。私どもは治療上の創意工夫を自由に凝らすゆとりなどありません。それでも、予めいのちの結界に感謝しつつ、創造力を展開すれば,癒しにビッタリなウソのない関わりを癒しの関わりにすることもできます。
さあ、第2の舞台は、自分から関わる、向き合う関わりを増す力や、そういったことを歓ぶ嬉しさが,育ち、成熟してきます。歯も生えて、硬いものに「齧りつき」、「嚙み切り」、「食い千切る」のも嬉しくなります。少しでも分かることと自由に遊ぶと、噛む生き方が、他の様々な生きた関わりを下支えするのに役立つことが分かります(受け止めて受け容れる最初の生き方も、分かることと自由に遊ぶと,様々な生き方の下支えに役立つのと同じです。)。その温もりに満ちて私を見守ってくれる眼は、心打たれたことを歓んで受け身で受け入れ,創造する最初の割り当てですし、いまここに焦点を合わせ、見分けて、朧気な背景から「掴み取る」ことが出来るし、いまここを三昧に生きる様になります。聴いて心響くと,大事な音色を聞き分け、その音色の在処を見定め、いのちの家の中で光に心を向ける姿勢に成ります(頭を挙げて、振り返り、聖書の神様を見上げた心も天を振り返ります)。両腕が伸ばすのも,両手で掴むのも、もっと自分を出すことが出来る様になります。
自分を出すと,日常生活の礼拝で司祭に成れます。
自分を出す幸せは,司祭に成る楽しみ。