#忖度遠慮よさようなら
#2つに裂けてるかな? #ルター #キリストを魂に戻した人 #スピリットを思い通りに生きる #中動態 #世代間の争いの目的 #治療的礼拝を創造する #光 #息......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。
Childhood and Society p.94のブランクから。
しかし,未熟があるのは,成熟の為だけなんでしょうか? そうではないようです。未熟があるのはまさに,自分を大事にしてくれる見守りを,身に沁みて実感するためであるように思います。そこで,赤ちゃんは,心響かせてくれる大人と関わり,特別な子育ての形と出合います。また,未熟があるのは,文化それぞれの仲間になる生き方に近づく(近寄る)生まれながらの形も,身に沁みて実感するためにもあります。
もう一度,生きている赤ちゃんとは何かを振り返って見ましょう。私どもが動物には「本能」があると申し上げる時,動物の人間よりも劣る本能は,生まれながらにか,赤ちゃんの時にか,生かされている自然とやり取りするパターンである,ということです。このような自然とやり取りするパターンは,種によって,全く異なりますが,同じ種の中では,そのパターンは決まっています。動物はほとんど学習することがありません。ここで私どもが思い出すのは,燕の物語で,ニュージーランドに、ホームシックに掛かった,イギリスから渡った人らが輸入した燕でした。そのツバメは冬が来ると,南に飛んで行って,戻って来なかった,というお話です。というのも,本能が示すのは,南に飛ぶことであって,温かい方に飛ぶことではなかったからです。家で飼っている動物やペットは,動物界の物差しのように簡単に考えがちですが,人間様に世話されて,日々の人間様の気持ちのニーズに応える様に、選別されて飼育された動物です。飼育されたペットが人間様から学んでも,自然の中や同じ種の仲間の中で生き延びるのに,役に立つ訳ではありません。この話のなかでは,動物一匹が何を学べるかを問題にはしませんね、問題にするのは,動物の種全体が親から子へ何を伝えるか,ということです。
より高等な動物の生き方では,人間どもは「本能の分業」があるのが分かります(「本能の分業」という言葉は,「労働の分業」の類義語です)。ここで「本能の分業」とは,手当てを本能的に求める赤ちゃんと,手当てを本能的にプレゼントしたいお母さんが,互いに大切にし合うことです。たとえば,哺乳類の中には,お母さんから赤ちゃんがお尻を突いてもらうことで,はじめて,自分でウンチが出来るようになる動物もいます。
人間の子どものころと子育ては,この本能の分業のよって,互いに大事にし合う最高の形ではないでしょうか。しかし,人間が生まれながらに持つ想いは本能ではありません。お母さんが赤ちゃんを大事にする想いはまた,元来,本能ではありません。本物の大人になるパターン,自分が発達するパターン,人とやり取りするパターンは,自然には受け継がれません。本物の大人になるパターン,自分が発達するパターン,人とやり取りするパターンが心響くものになるのは,習慣と善い良心です。
一動物として,人間は取るに足りません。人間の子どもを家畜化の過程の中で語っても意味はありません。あるいは,人間の本能を,有無を言わせぬ自然が土足で踏み込んだり,鋳型にはめたりしたパターンだと語っても,意味はありません。人間の「打ち込まれた内的促し(訳注:生まれながらの本能 とも訳せる)」は,子どものころの長い間に,バラバラになっているものを集め,意味を与え,心響かせるものにします。それは,しつけ方と教え方によります。しつけ方と教え方は,文化によって違いますし,生活習慣で決まってきます。人が仲間の一人としても,かけがいのない存在としても,しつけ方と教え方には,心響かせる存在となる好機があります。しつけ方と教え方にはまた,人間の限界もあります。…人間が生きられるのは,しつけの習慣が子どもと共に見る善い良心をプレゼントできる場合だけです。子どもと共に見る善い良心があれば,その子どもはめげずに人の道を歩むことができますし,富める時も貧しさにもビッタリ応じることができる,体得底の不動心とめげない態度が身に付きます。子どもと共に見る良心によって,子どもが体得底の不動心とめげない態度が身に付くためには,子どものしつけが,明確には意識できない「本能のように働くパターン」(男女差があり,近しくなりたいバターン)を活用することです。「本能のように働くパターン」(男女差があり,近しくなりたいバターン)は,本能のパターンを強めますし,人間の場合,本能の部分は小さいがゆえに,とても変わりやすいのに,とても変わりずらいんです。
ここで一つ手に入れたいと思うのは,予定表と未熟な身体の様々なあり方が一体になる関係をまず理解することです。予定表と未熟な身体の様々なあり方が一体になる関係こそ,人間らしい生き方を確実にします。人間らしい生き方は、心響かせる人とその相手が,もう一人の心響かせる相手とその相手と,出会いを育むことにとって,なくてはならない生き方になります。心が響く身体と一体になることこそが,出会いや他者をありのままにします。心が響く身体と一体となった人は,出会いや他者をありのままにすることを許すこともできますし,他者が違っても許すこともできます。心が響く身体と一体となった人は,出会いや他者に入っていけます。心が響く身体と一体となった人達は,人の身体部位ともピッタリ響く関わりができます。人の子は,長い子どものころに,身体のくっ付け方を学びますし,身体のくっ付き方を学ぶと共に,人との関わり方も学びます。人の子は,育てられた場にいる心響かせる大人(あるいは,心響かせない大人)になるように,心響かせる人(あるいは,心響かせない人)になるのです。このように身に着けた心響かせること(あるいは,心響かせないこと)は,心響かせる生き方(あるいは,見て見ぬふりする生き方)とお互いに一体となることに基づいていますし,同時に,人の子が育つとどうなるかというイメージと一体になることに基づいています。
知性の働きを割り当てられた働きの一例とみなすならば,知性は心響く生き方と一体になるのか,それとも 知性は見て見ぬふりする生き方で歪んでしまうか のどちらかだと分かります。知識は付けたりにすぎません。知識は一部は覚えておいて,後は忘れます。知識を人に伝えれば,その人は上手に咀嚼したり,また別の人に伝えたりします。
知識は知ったらお終い,ということも多いです。
しかし,人格的真実は,実際に体験して実験しなくては解りません。