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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

触れるのは、信頼の証拠

2014-07-27 06:07:43 | アイデンティティの根源

                      下記の女の子お手製のストラップ、ゲット

 意識的に触れることには、相手を大事にすること、一人の人間として認めることにもなる。それは心を込めた、優しいタッチ、ストロークになることでしょう。しかし、意識せずに触れれば、それはデタッチメント、離れ離れになることにも通じますし、打つという意味でのストロークにもなる。触れるという何でもないことが、実に様々な不思議な働きをすることが、お分かりだろうと思います。

 昨日、この春まで面接していた女の子のママから、「『エリクソンの小部屋』を分かりやすくしてほしい」と教えていただきました。ありがとうございます。「むずかしいことをやさしく、やさしいことふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書くこと」という、井上ひさしさんの座右の銘は、「エリクソンの小部屋」の方針ですから、やさしく、分かりやすく記していきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 p327の、「マルコによる福音書」第五章の引用部分から(原文では、文字のポイントが小さくなっていますが、この翻訳では、同じポイントで記します)。

 

 

 

 

 

 すぐに、その女性の出血が止まりました。その女性は、自分がその長血の病から癒されたことを身体に感じました。そして、イエスは、すぐに、力が自分の中から出ていくのを内側で感じて、押されたあたりを振り返って、言いました。「私の服に触ったのは誰ですか?」と。弟子たちはイエスに言いました。「ご覧になればお分かりの通り、たくさんの人たちがあなたの周りに群がっているんです。それでも『私の服に触ったのは誰ですか?』と訊くんですか?」と。イエスはあたりを見渡すと、この女性が自分に触れたことが分かりました。でもその女性は怖くなって、震えていたんです。自分の身に起こったことが分かったからです。イエスのもとに来て、イエスの前で倒れこみました。そして、イエスに本当のことをすべて包み隠さず話したのでした(「マルコによる福音書」第五章29-34節)。

 ここから、イエスが、大群衆の中から、自分に触れるために歩み寄ってきた1人の人を選んで、応えているのが分かります。次にイエスがその女性に言ったこと、それこそ、皆さんにとって、全く新しい課題の扉を開くものでしょう。

 

 

 

 

 長血の女は、12年間も苦しんだ病気が、イエスの服に触れることで一瞬で治ったことを知り、恐れおののきます。この女性が医者に全財産をつぎ込んでも治らなかった時のことを想像できるでしょうか? それはとても想像できることではないのかもしれませんね。

 それでも、触れるだけで癒された。12年間人に裏切られても、イエスなら、何とかしてくれるかもしれない、と信頼していたからでしょう。イエスには失礼かもしれませんが、わらをもつかむ思いだったかもわかりません。それにもかかわらず、彼女が、イエスへの信頼は、失っていなかったことだけは、確かでしょう。そのように申し上げて差し支えない、と考えるのは、彼女からイエスに歩み寄り、イエスに触れた、という事実が、その女性のイエスへの信頼を物語っている、と感じ取ることができるからです

 

 

 

 

 

 

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