序文では、日常生活の礼拝と遊びについて,大切なことを教えられましたね。
特に、ウィリアム・ブレイクのAuguries of Innocence「心からの自由 の予兆」については、私が翻訳した12行分のところは、まるで、エリクソンが赤ちゃんの頃について述べる話を、ブレイクが詩の形にして見せたものだ、という感じが強かったですね。実際はその逆でしょうけれども。
ちなみに、
He who replies to words of Doubt
Doth put the Light of Knowledge out
のところは、壽岳文章先生(『改訳 ブレイク抒情詩抄』岩波文庫、p.103-p.109)でさえ直訳で
「疑惑の言葉に答へる者は
知識の光を消してしまふ」
と訳しています。「赤ちゃんや幼児に、言葉で答えても、本当に応えたことにはならない」、という経験に思いを馳せなくては、ブレイクが言いたかったことは日本語になりません。赤ちゃんや幼児の信頼や疑いに応えるためには、大人が具体的に態度や行動で、応えなくてはならないからです。たとえ言葉で答えることがあっても、その言葉を態度や行動で示すこと(受肉化、体現)がなければ、赤ちゃんや幼児には伝わりません。だいいち、この「知識」は(日本の)学校で教わるような知識ではありませんから、「知識」と訳しては不十分と言わなくてはなりません。もっと体験的な知恵、すなわち、「具体的判断力」「英知」と言うべきです。ですから、ブレイクの詩のこの部分は、
その子の抱く疑いに言葉でばかり応えれば
英知の光 消すばかり
とする方がベターなのです。
今日は、その続きで、第一章 遊びとビジョン Play and Vision から、その序説introductionを翻訳することにします。それでは翻訳です。
序説:子どもの遊びから政治まで?
あらゆる遊びに関する定式的な表現の中で、最も短く最良のものは、プラトンの『法律』の中に見つけられます。プラトンは本当に楽しいことのモデルを、あらゆる幼子が、動物でも人間でも、跳ばずにはいられないことに見ています。本当に跳ぶためには、地面を跳躍台として使う方法や、しなやかに安全に着地する方法を学ばなくてはなりません。つまり、跳ぶとは、一定の限られた範囲の中で、重力に勝ろうとして、重力から逃げるわけにはいかない、その行動の自由を実験することです。このように、楽しさがひろく行き渡っているところであればどこでも、驚きの要素が、単なる繰り返しや慣れを超えて、必ずあるものですし、この驚きの要素には、一番うまくいけば、未踏峰を征服する感じや神様から頂いた行動の自由を共にしている感じもあります。楽しいことに驚きの要素が「思いがけずある」と、驚きの要素があることに気付くのも、気付いたことを(態度で)示すのも容易なことです。
エリクソンが、遊びが一番うまく行った時の感じを、短い文章ながら、巧みに表現しているところです。エリクソンは本当に遊びのことをよく知っているな~、と感心します。序文prefaceのところで、ジョアン夫人が一生を遊びのために捧げてくれたことに、エリクソンは感謝していますが、エリック・エリクソン自身も、生涯をかけて遊びに取り組んだからこそ(この本を書いたときには、70才を超えています)、遊びをこのように簡潔に表現できるのだと思います。
遊びは、天からのお恵みである,心からの自由を、遊び仲間と共に試して、楽しみながら、自由の範囲、人間らしい暮らし、それを実現するための政治、を広めていくことなのです。
今日はここまでといたします。
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