エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

無限の可能性としての遊び?

2013-05-21 02:51:18 | エリクソンの発達臨床心理
 遊びの非常に簡潔な意味を教えられましたね。今日のところで遊びの意味がさらに展開します。それでは翻訳です。




 ところが、遊びでさえ、自発的な遊びにも、儀式化された遊びにも、いろんな形があるけれども、人間の葛藤へと誘い込まれてきました。プラトンも幼子について触れていますし、遊びがどのように思われるかは、子どもの時期が、大人になってからの時期とどのように繋がると考えるのか、その考えを私どもが、大人になるにつれて、変えるのかどうかということに、とても大きく左右されます。遊びの仕事に対する関係次第ということももちろんあります。大人たちは、大昔から、遊びは真面目なものでもなければ、役に立つものでもない、と見なしがちでしたし、また、こうして、遊びは、人の大変な仕事や目的の中心とは関係ない、とも見なしがちでした。現実には、その大変な仕事や目的の中心から、大人たちが「レクリエーション」を求めるのが遊ぶ時、ということになります。こんな区別ができてしまうと、人生はますますつまらないものになりますし、大人たちは、厳粛であることが多いあの感じ、すなわち、大人の関心事のとても大事な中心に、楽しいこと(と、楽しむことを通して、無限の可能性と)が起こるかもしれない、という感じを避けるようになります。子どもたちの関心事の大事な中心では、楽しいこと(と、楽しむことを通して、無限の可能性と)が起こっているのにね。ところが、子どもたちの遊びに関する膨大な文献でさえ、強烈なアンビバレンスを反映しています。先進的な遊びの理論の中には、アンチ・カルビン派の熱狂的な要求に応じているようなものもあります。その理論では、すべての遊びは、すべての年齢で、それ自身が完全に目的でなければならないし、おまけに神聖な目的でなくてはならない、と宣言します。反対に、発達理論は、子どもの遊びを、子どもが成長し、学習するためにはとても必要なこと、として特徴づけてきました。他方、臨床理論は、子どもの遊びに、重たい心理的課題を解決する役割を課してきました。実際、私どももそういうことになるでしょう。





 今日のところで、遊びに対する大人たちの否定的な思い込みが語られていましたが、臨床的にはそれがとても重要です。というのも、子どもが遊びの中で、心理的課題を示していても、親も教員も、エリクソンが指摘するように、それは遊びだから、「真面目なことではない」だとか、「役に立たない」だとか、と見なしがちだからです、あるいは、「訳の分からないこと」、「規則違反」などと、退け、抑え込み、禁止することが多いからです。そうすると、何よりも大切な、子どもと大人の間のやり取りのある関係が壊れてしまいます
 逆に申し上げれば、子どもが遊びに込めている心理的意味さえ分かれば、それに大人も、言葉だけではなく、態度や行動でも、応えることができますから、子どもと大人との間のやり取りのある関係が生きることになります子どもが遊びで表現していることを、大人が意識して読み取っていくこと(見て知ること)がいかに大事なことか、お分かりだろうと思います。
 今日はこんなところで失礼いたします。
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