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The Galilean Sayings and the Sense of “I”. The Yale Review. April 1981, p330の第3パラグラフ。三度。
関わる中で、≪私が生きている≫実感をまじめに取り上げた聖書記者たちは、まずはじめに、何が≪私が生きている実感≫の遊び相手なのかを問うことになるでしょう。聖書記者たちは、実際には、2人称、≪私が生きていることを実感しているあなた≫から始めるかもしれません。それで、聖書の神様のスピリット 、いつでも私が生きている晴れ晴れとした実感そのものである≪あなた≫とともに終わりの日を迎えるのかも分かりません。私の発達上のオリエンテーション、指針にとって、≪私が生きている≫実感の発達を描くのに最も雄弁な「地図」は、人称代名詞を話し言葉にしたものの全リスト、つまり、≪生きていることを実感した私≫から≪生きていることを実感した彼(女)ら≫になるでしょうね。その生きていることを実感している,人称の全リストのひとつひとつは、はじめは子どものころに正しく話し言葉にしたり、それぞれの関係のど真ん中で,生きている実感を確かめて確かにしたりするようになりますが、その後、人生を通して、その人称の一つ一つを相手に、意義深く、繰り返し繰り返し、≪私が生きている実感≫を試しは確かめ,試しなおしては確かめて,体得した体験知になり,生きていることに意味をプレゼントしてくれます。≪私が生きている≫実感そのものは、自分のことも大切にしてくれるお母さんの中で,お母さんが≪生きているそのものの実感の塊であるの聖書の神様≫と時空を共にすることで,≪生きている実感≫を実感していることから、始まるもんだ,と考えていいんです。ですから,お母さんのことを、私どもは「最初の相手」と呼ぶことにもなります。さらに,この「最初の相手」であるお母さん,それから,創造の場では,互いに大切にしあう様々な相手が,お互いさまに,それぞれ「自分自身の」≪私が生きている≫実感を高めてくれる「今ここに共にいてくださる相手」として,あの新しい人を試して確かめることが,生死を分けるほど大切になります。最初の≪私が生きている≫の実感が,次第に,もう1人の根源的な遊び相手,すなわち,「本当の自分」と出会うのは,まさに,このお母さんが聖書の神様から≪生きている≫実感を頂いて,赤ちゃんにも分けてもらえる関わりです。ですから,「本当の自分」とは,心の中で互いに大切にしあうほぼ唯一の相手になります。しかし,そのもともと「あたなと私」の母子2人がお互いさまに大切にし合うことは,生涯を通して互いに大切にしあうことのひな型になり続けますし,聖パウロが,「ガラス越しに朧げに」曖昧にしかジッカンスルことができない,と最後の出会いを宗教的にハッキリと示した最後の出会いまで,残ります(最後の時には,究極的に互いに大切にしあう相手である,聖書の神様がお相手です)。
生きている実感は,お母さんに始まって,「本当の自分」や聖書の神様まで,「今ここに共に居る」ということを繰り返す中で,試して確かめるものです。
ですから,1歳前後の赤ちゃんの目の前に共に居ることがほとんどできないお母さんが多いニッポンの現状は,殺人的です。
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