ルターは、デッカイ建物やら厳かな行事やら、ありがたい教えやらエライ学者やらに頼って、自分を確かにする道を捨てて、自分の中のまします savior セイヴィアー≪ひとりびとりを確かにしてくれる人≫のおかげで自分を確かにする道を、選びました。
Young Man Luther 『青年ルター』p213の第3パラグラフから。
これは、良心の次元で言ったら、ルネッサンスの人間中心主義の相棒なんじゃぁないのかなぁ? ルターはいろんな天空のことは、科学に任せて、自分自身は、自分自身の苦しみと信頼について知り得たこと、すなわち、ルターが本気になっていることに、専念しました。ルターは、父親の顔と、天にまします父なる神の顔とを、曇らせていた怒りの陰りを、晴らしたいと願っていましたが、今や、「キリストの命は神の顔です」と、すまわち、「qui est facies patris『(ラテン語で)それ(キリスト)は、父の顔です』」と語りました。Passion「十字架の苦しみ」は、人が神について知り得るすべてです。つまり、人の葛藤は、誠実に向き合えば、自分自身について知り得るすべてになります。ですから、最後の審判は、いつでも、いまここで、自分の良し悪しを判断することになんですね。
素晴らしいですね。ルネッサンスは、建築、文学、思想、芸術などの分野で、人間中心の運動となりました。エリクソンは、ルターが心の中で、自分を確かにする道を見つけたことを、このルネッサンスに擬えて、人間中心主義だと言いましたね。人間の良心を、悪い良心から解放したからですね。
最後の審判も、ビクビクとして毎日暮らすためにあるものではなくなって、日々の生活の中にある葛藤、苦しみの中に、どんな幸いがあるのかなぁ、と見つけ出す、恵みの源となりました。
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