自分の「未解決の個人的課題」は平凡な日常生活を送っていても、なかなか気づけるものではありません。「困ったなぁ」、「あいつはとにかく許せない」などと感じるような場面に出くわす危機場面になって、初めて気づきのチャンスは与えられるんですね。
Young Man Luther 『青年ルター』p.221の第3パラグラフから。
神ご自身が、気前のいい父なるイメージに、このように加わります。ルターは旧約聖書の『詩篇』第102篇13節(現在の聖書では、14節)を解釈して言います。「あなたは、どうか立ち上がって、シオンを憐れんでください」とこの聖句にあります。「この『立ち上がる』とは、神ご自身が、一番優しくて、一番恵み深い人になりつつある、ということです。というのも、ここでは、神が私どものところのくるのは、神が私どもを神まで掬い上げるためだからです」と。
神様が私どもに来るときには、最初は、なんか自分にとっては、不都合だ、嫌だ、と感じる場合が、ラッキーだと感じる場合よりも、はるかに多いと思います。これは私の経験則ですから、どなたの場合もそうだとは言えないかもしれませんね。でもね、「footprints あしあと」という詩を書いた詩人も、私と似ていますから、私のように感じる人はかなりいるのかもしれません(http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_footprints.htm)。
不都合だ、嫌だ、と感じるところをよくよく見ていると、そこには、私どもを神の御許に、現世の中で掬い上げて下さっていることが、ハッキリ見えてくる場合が、少なくありません。
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