エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#内的促しの幸い

2020-01-23 06:55:33 | エリクソンの発達臨床心理
 
#聖書の言葉 #単独者の恵み #摂理

   マハトマ・まど・みちおさんの言葉から生きているのに死んでいる皆様へ自然の摂理 というのは本当によくできているものです ...
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  
をご参照ください。 
 
 Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
 
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
 p.341のⅢから。
 
 今朝は,古老の言葉の引用部にあたる,p.342の第5パラグラフ,10行目から。
 
 
 

 Ⅲ 子どもの頃の初めと賢いこと

 

 本当の自分を創造することを理解することが困難なのは,初めに行動指針を並べ立てるところから始めなくてはならない事実があるからです。本当の自分を創造することが発達して,その人ならでは,が育つ全体像の一番善い説明は,隠されている本当の自分が発達し,その人ならではが育つと,ひとりひびとりが,キリストを介して聖書の神様と一心同体に成り,その結果,お互いにも一心同体に成ることです。それまで毎日礼拝が無言で「とてもいいぞ」と認めてくれていたことが,本当の自分が育つと,山のような人から,いまここで繰り返し,ハッキリと「とてもいいぞ」と認めて貰えるようになるはずです。子どもと,身体面でも,心理面でも,対人面でも関わる大人の数が増えますからね。つまり,毎日礼拝で,新しく出会った人たちと互いに大切にし合って,相手も自分も不動になり,自由になるんです。互いに大切にし合って,相手も自分も不動になり,自由になるのは,いつでも,敵が新しい友になる驚きの中にあります。それから,互いに大切にし合って,相手も自分も不動になり,自由になるのは,いつでも,新しい形が生まれます。

 人間の毎日礼拝の第2の形は,一番相応しい言葉は,「judicial,分別の言葉」です。それは,ラテン語の「jus 立法」と「 dicere  話し言葉にする」という言葉の組み合わせだからです。とにかく,judicalという言葉は,正しいことと悪いことを「区別する」方法を含む言葉ですから,自分を創造する時には,確実になります。結局,善悪を峻別する「律法の話し言葉」は,人間の毎日礼拝の大切な見方になります。と申しますのも,毎日礼拝も,善しとされ仲間となる者と,それ以外のよそ者を区別しない毎日礼拝は,1つもないからです。選ばれる者と排除される者があるのは,最後の審判まで続きます。

 この第2の形が自分を生み出す源は,第2の聖書の神様のいのちの舞台です。それは,子どもの頃の初めで,魂が生きている実感に従うのを習慣にすることが育つことと,発達が急にすすむこととが,特色です。「ある場所から別の場所に動けること」が,生きている実感を心の習慣にするのに役立つように,移動が許される限界にも出くわすことになります。「分別」が鋭くなるにつれて,「分別」は,「正しく見える」ことと「正しくは見えない」ことを他者の眼で見る忖度を受け容れることにもなります。しかも,「言葉が育つこと」(言葉は,「人間を上下2つに分けるウソ」による繋がりの一番強力な絆であることは明らかです)が,言葉になる世界の中で概念的に纏まるものを強調しますから,言葉にならないことは,名前もなく,奇妙で「悪い」ママになります。こういったこと全てに強烈な意味を与えるものは,フロイトさんが「お尻の穴」と呼んだものです。「お尻の穴」って,腑に落ちない新しい心の習慣にもなります。生きている実感を真っ直ぐに生きると,面目をなくして,恥ずかしいことになるんだと,子どもは気が付きます。真っ赤な顔をして正体がバレますし、一人ぼっちの孤独をひどく感じるのに,自分が悪いのか,自分を裁く親が悪いのか,が分かりません。大人たちは,いのちを削り合う関係の中で,子どもを出汁に使わなきゃ損だと感じますし,子どもは恥をかき,悪いのは自分なのか親なのかに迷う心の習慣をますます酷なものにします。しかし,本物の大人が,人間様を超える聖書の神様の正義を代弁するのは,善悪を分別する毎日礼拝じゃないんですからね。つまり,悪い行いは裁いても,悪いことをした当人を裁く必要などないんじゃないの?

 決して忘れまいと思う経験が1つありまして,それは,全ての人類学者(プロでもアマでも)と分かり合えると確信します。つまり,それは,「現場で」「天から間違いなく善しとされる,善い生き方を直感することによって,自分の生業をとっても善いものですよ」と語った古老と初めて出会った,あの驚きです。善い実例をお示ししましょう。それは、北カリフォルニアに住むユーロック・インディアンの人たちから聞いた話です。そのユーロック・インディアンの人たちは,鮭と,増えて移動する(長い間,ハッキリとは分からなかった)鮭の謎の生き方に頼って暮らしてきました。

 

「昔はね,ユーロック人の食事は,自分が繰り返しユーロックの神様と一心同体に成る本物の礼拝でした。厳格な置き方があり,子どもは決まった食べ方を教えられました。たとえば,食べ物を少しスプーンに乗せること,そのスプーンをゆっくりと口に運ぶこと,食べ物を噛んでいる間はスプーンを下げておくこと,そして特に,その間,自分は豊かになっていると想像すること。食事の間は沈黙でしたが,それは,皆がお金と鮭に三昧になるためです。この食事の毎日礼拝は,おっぱいが恋しい思いを,心から優しい夢を大切にする物差しにしてくれます。このおっぱいが恋しい思いは,(アメリカ・インディアンの中では極めて例外的に)離乳がとても速く行われることから生じていました。後年(訳注:大人になる毎日礼拝を行う)「汗の家」の中で,お金のことに意識を集中させて,女性のことは一顧だにしないという,2つを1つにするキリストを学ぶことになるんです。ユーロック人は,大人になれば,シーズンオフでも、木々にはお金がなり,川には鮭が泳ぐのが見えるようになります。というのも,ユーロックの大人は,内的促しの中で「夢のような」思いは神々が実現してくれるものだ,と信頼しているからです。」

 

 昔日本にも,言霊信仰があったそうですね。

 言葉にしたことは,現実になる,という信仰のようです。

 昔のユーロックでも,内的促しに従っていると,神々が「夢のような」思いを実現して下さる,という信頼があり,それが毎年の現実になっていたようですね。

 内的促しを日々実感している者たちの幸いです。

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