大人の肯定する力と「父なる神」
前回は、青年期の儀式化と儀式主義がテーマでしたね。青年期の儀式主義は、全体主義でした。そこでは、熱狂と村八分とギラギラした感じ(見せびらかし)があります。河合隼雄がどこかで、「ギ...
学校に参りますと、「~しましょう」などとたくさんの目標・校則が教室や廊下に貼ってあります。集団生活ですから、当然、目標、ルールが必要です。朝の連続テレビ「花子とアン」ではないですけれども、「廊下を走らない」「大声禁止」「時間を守る」「早寝、早起き、朝ご飯」「自ら求め、考え、表現し、実践できる生徒」「自分の考えや思いをいきいき表現しよう」…。
私はある時、教室に貼ってある、この規則・目標に類するものがいくつあるのかな? とその数を数えたことがあります。その数は34ありました。担任の先生に「どれくらいの目標が教室に貼ってありますか?」と伺ったことがあります。先生は「十個くらい?」と語尾を上げて答えてくださいました。いくつあるのか分かってらっしゃらない?!(語尾を上げる[笑])
こんなに目標・ルールがたくさんだと、私の感覚では、「あっ、これは、目標・ルールは、守ってるフリをすればいいんだな」、あるいは、「こういう目標・ルールは『建前』で、別に本気で守る必要はないんなんだ」という感じを持ちます。実際さっきの目標・ルールを掲げる学校では、先生ご自身が校長や教頭の目を気にしておいでで、「自分の考えや思いをいきいき表現しよう」という目標ができていませんでした。
今日のエリクソンは、大人の条件として、「ヌミノースの見本に喜んでなる」とあって、生き生きと生きていることをまず挙げます。あの学校の先生たちのように、自分の考えや意見を自由に口できないのに、イキイキ生きることなどできません。またあれでは、「理想の価値を伝えるものとして、喜んで振る舞うこと」にもなりませんね。また、あれじゃあ、「『私は自分のしていることに自覚的です』という確信」などあろうはずがありません。
ですから、学校というのは、やりがいがあることですが、目標・ルールをたくさん掲げることが、子どもを肯定することに反することに繋がります。しかも、その目標・ルールを盾に、裁判官のように子どもたちを裁くことだけには、長けている先生が、残念ながら、日本の学校では、多数派です。
この点参考になるのが、昔の北海道大学、すなわち、札幌農学校です。時の教頭(実質的には校長)のクラークが掲げたのが、一言「Be Gentle[man]」紳士たれ、です。そして、クラークも生徒も本気でこれを守ろうとしたのです。
こういう本気が今の学校にぜひとも必要です。
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