心理のところに来る子どもは、何かしらの「問題」を指摘されて来ます。まるで「悪いのはこの子です」と言うが如し、です。しかし、「問題」も「障害」と同様に、その子どもに帰属するものではありません。いろんな人間関係の中で生じているものなんですね。ですから、基本がその子の「悪いと所」を完全するのではなくて、主として「母子関係」と、それが内面化された「自我と良心の関係」のいずれか、ないしは、その両方を調整するのが、サイコセラピストの腕の見せ所、ということになります。
ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog より、p.209、下あたりから。
課題を負わされた子ども等の治療に携わる私どもは、1つの状況に関する先入観に、常に用心しなくてはなりません。「困難を負わされた10台の子ども」は、別の視点から見たら、「性的虐待の犠牲者」かもしれませんし、子どもにつけられたラベルは、その子どもがどのように関わられてきたのかを物語っていることが多いんですよ。「ダメだ」と見なされた一人の子どもは、「キチガイ」と見なされた人とは別の処遇をされるでしょうし、2人とも、臨床医が1人の「犠牲者」と見るのか、それとも、「悪者」と見るのか、によって、別々の視点で見ることが出来る行動をします。さらには、どういう視点で見るかと言う視点次第なので、全く同じ行動が、「家出」とも、「助けを求めること」とも、枠づけることが出来ますし、子どもをどう見立てるかということは、その子どものために何をしたらいいのか、その子どもにとってなすべきことは何なのか、を決めることに、根源的な影響をもらたします。
コラムの「瞳の美しさ」で取り上げた小学生も、「学校一の問題児」と見立てられて、私のところにやってきました。でも、その子の瞳が最初から気になっていましたね。学校が付けている「学校一の問題児」というラベルはおかしい、と直感的に感じました。家庭的な問題から、大人のウソを見抜く動物的な直感が、人一倍強いことが次第に分かりました。そういう見立てをすることと、その見立てに従った関わりをすることで、あるいは、その見立てに従った関わりを教員にしてもらうことで、その子どもは非常に変わったんですね。
ことほど左様に、子どもをどのように見立てるのか、ほとんどの場合、子どもには非常に高い目的があると思って子どもの様子を見立てることが、状況の改善に繋がりますね。
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