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「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
p.339 第3パラグラフから。
今朝はp.340の,第2パラグラフ,下から2行目から。
私が毎日礼拝の様々な元(もと)を一覧表にしようとしていますけれども,毎日礼拝の最初の元として繰り返し思い出すものは,聖書の神様が「とても善い」と認めてくださることに,驚き感激することから,内的な促し(最深欲求)が生まれる,ということです。つまり,聖書の神様が「善し」として下さることに,驚き感激する中で,聖書の神様からの内的な促しがありますと,バラバラに二分されて対立した敵同士が仲直りして一心同体になって,シャローム平和を創造した2人が,徹頭徹尾,輝くことになります。聖書の神様が「善し」として下さることに,驚き感激する中で,内的促しがあるおかげで,2人が互いに大切にし合う土台は,「対等ではない」響きとスピリットを持つ2人が共に抱く,「互いに対等でありたいし,しかも,互いに相手に合わせ合って,一心同体になりたい,という(訳注:最深)欲求」です。私ども夫婦が,アーメン,なるほど本当だね,と繰り返し思い出してきたことは,毎日礼拝って,「キリスト(本当の自分,大我)」を生み出す母親だということだけではありません,毎日礼拝って,「響き合う仲間志向」だってことですから,毎日礼拝は,「2人はバラバラであっても,一心同体になれる」と実感する心の習慣と,「2人は違っていても、互いに大切にし合える」と実感する心の習慣とを,プレゼントしてくれます。毎日礼拝には,陽気で楽しい歓びがありますが,同時に,その陽気で楽しい歓びには決まった形ができます。細部を進めるうえでも,全体を進めるうえでも,歓びには決まった形ができます。毎日礼拝を毎日繰り返すことによって,「馴染みになり仲良くなる」のに,「善し」とされ,大切される(訳注:聖書の神様のいのちが一巡して,2人が一心同体になる)度に「驚き感激する」ことに決まっています。それに,動物行動学者らが教えてくれることは,動物界の毎日礼拝は,特に,一通りのシグナルには,「1つの意味しかない」,ということですが,人間の毎日礼拝は,迷いと躊躇いをなくす,というだけではなくて,2人のぶつかり合いを乗り越えて,シャローム平和を創造する、ということが,毎日礼拝の一番大切な務めではないかと思います。と言いますのも,私ども人間がわが子を大事にする時に気付かされるのは,我が子が我慢ならないほどあれこれと注文を付ける,ということですし,子どもは子どもですぐに気付くのは,うちの親は身勝手で,支配的だ、ということです。私どもが大切にてして,しかも、敬っている相手が,同時に,オッカナイ相手でありますし,また,畏れ敬う気持ちが嫌な感じに変わりますし,あるいは,慈しみ深い優しい気持ちも,頭に来ればなくなってしまう嫌いがありますでしょ。ですからね,毎日礼拝することで,「善し」とされて自分の中心軸が不動になる,ということが,いったん心の中で出来上がりますと,毎日の経験として「手に余る」ものですから,新たに発達創造するやり取りという,2本の糸を1枚の布に織り上げるみたいに2人のいのちを聖書の神様の心から優しいいのちが一巡して一心同体になる中で,新たな気高い生き方を見付けることに必ずなります。
この新たな気高い生き方を見付ける毎日礼拝を礼拝する母子は,心から優しい唯一無二の聖書の神様の寛大な教えを忠実に守るを2人ですから,キリストを毎日目覚めさせて,2人は 生きるはキリスト という聖書の教えを生きることになります。聖書の神様がまします場では,毎日礼拝を讃えるシャローム平和の讃美の歌のゆえに,様々な対立は,拍手喝采,陽気で楽しい歓びになります。しかし,対等な関係が試練となる上下で差別がある関係では,魂の痛みを話し言葉にすることで癒すことが,このキリストのスピリット,キリストの眼を毎日目覚めさせることを,上下の差がある2人も確かにすることになります。魂が混乱する病の中で,本当の自分が創造される際に,聖書の神様のいのちが最初に一巡する舞台に関係づけるようになったものの中で,1番深刻で,1番荒れ果てている魂の病は,互いに大切にし合う光,希望の光が,聖書の神様のいのちが消え去り,逆回転する中で,消え去った魂の病ですし,この1番深刻で,1番荒廃した魂の病は,スピッツやボールビーが示してくれたように,赤ちゃんの頃から,その傷口が広がります。と言いますのも,赤ちゃんの時にお母さんから「善し」とされたことは,繰り返し「善し」としてもらうことになるからですし,それは,心配ご無用と言われた善い体験そのものが,もしかしたら,ずっとよそ者扱いにされることになる体験になるからです。ずっと続くよそ者扱いを特定しようと致します、発達の舞台ごとにその者扱いをハッキリされますから。最初の舞台では,よそ者扱いは,お母さんに見捨てられてお母さんと離れ離れになっている感じ・心の習慣です。この,お母さんに見捨てられてお母さんと離れ離れになっている感じ・心の習慣は,毎日礼拝の中で,キリストが生き続け,聖書の神様のいのちが一巡し,繰り返し,生かされているって,奇跡のように,ありがたいことだね,とアーメン,本当だねと確認できる,親友みたいな仲良しであることと,互いに大切にし合うことによって,予防できます。毎日礼拝の中で,キリストが生き続け,聖書の神様のいのちが一巡し,繰り返し,生かされているって,奇跡のように,ありがたいことだね,とアーメン,本当だねと確認できる,親友みたいな仲良しであることと,互いに大切にし合うことは,驚き感激するヌミノース,の心からの歓びがいつでもありますし,2人を一心同体にして1つにする毎日礼拝,すなわち,その形の如何にも関わらず,毎日礼拝をすることに伴う驚き感激するヌミノースの心からの歓びが,いつもあります。反対に,こういった心からの歓びが,捻じ曲げられたり,なかったりすれば,ビクビクして怖がり,仲間外れらされ,大人になれない心の習慣がずっと続いてしまいます。
別の論文で(エリクソン,1964),申し上げてきたことは,人間にとって最も根源的な人品である,「聖書の神様に望みを掛ける希望」は,魂が聖書の神様のいのちに繋がって,「とてもいい」と許されて,確かにされることです。魂が聖書の神様のいのちに繋がって,「とてもいい」と許されて,確かにされることって,赤ちゃんの時に,母親と仲間になって,互いに大切にし合うことから,バラバラにならずに,ピッタリと一心同体になっていることなんですし,同時に,全ての人間にとって,梵我一如の心の習慣(梵我一如の約束)をギフトとして,プレゼントしてくれるものなんですから。「聖書の神様に望みを掛ける希望」が地に足を着け,生活の中で育つのは,赤ちゃんの舞台ですし,敢えて申し上げれば,あらゆる毎日礼拝とあらゆる儀式のおかげで,仲の良い親友関係の中で,育つものです。あらゆる毎日礼拝とあらゆる儀式は,コントロールされ,生きている実感の息の根を絞められて,聖書の神様を信頼する大文字の希望を見失っている習慣に,2人で立ち向かうことですし,聖書の神様のスピリットを魂に打ち込まれていることに気付いて,顔と顔を合わせて,一生涯,互いに大切にし合う光を約束します。それは,(訳注:新約聖書の「コリント人への第一の手紙」第13章12節にあるように)「私どもは,体得底で体験的に理解してもらっている様に,体得底で体験的に理解できるようになります」。
聖書の言葉は一人称単数ですが,エリクソンは一人称複数で引用しているところに,深い聖書理解があります。
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