#気高い関わり #スピリットの賜物
#お役人の狂気 #何のためにの忘れ物 #目的喪失 カウンセリング,サイコセラピー,心理相談などを受けたいあなたに 発達トラウマ障害は、世代間伝達しちゃう ......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
Afterthoughts. 1985 「補足 1985」 から。Childhood and Society の3番目の,最後の序文です。おそらく,エリクソンの出版した最後の論述になると思います。
1902年生まれのエリクソン,当時83歳。亡くなったのは,この9年後,1995年 92歳になる1月ほど前です。
p.9のブランクの後から。
今朝は,p.11の,第2パラグラフ,7行目から。
今の2つの大国の,2人の親のタイプのぶつかり合いを,心から自由になる観点から見ますと,全てに影響する「アメリカ的な《ママ》」の母親のジレンマと,《ドイツ的な父親》が歴史的に壊された父親のタイプとに、ぶつかります。《口うるさい教育ママ》は,シングルマザーに一括りできないお母さんの様々な特色を示していると言われます(289ページ)が、もう1つ一般論を引用すれは,「母親が《ママ》になるのは,父親が,昔ながらの父親役になれない衝撃で,《パパ》になった時だけです」。と申しますのも,もしも皆さんが教育ママになっているとしても,教育ママだけが,子どもの対する父親の思いを取り違えたんですね。アメリカのお母さんたちが,お爺さんの役回りをするようになったのは,アメリカのお父さんたちが,教育や子育てで,家族をまとめる立場を止めたからです(p.295)。どちらのケースでもとても為になってきたのは,お母さん,あるいは,お父さんは,どんなタイプだったのか,ということと,お母さんとお父さんの関係はどうだったのか,ということを話し合うことです。これまで私は,軍靴が聞こえる中で父親の子どもに対する思いが残忍になったことに触れましたし,山川草木森羅万象悉がかしづいて,晴れ晴れと自由に生きることを振り返っていますのは,時間を見通す時に,いまここにこそ,山川草木悉が生きるはキリストとなって,聖書の神様のいのちを分かち合う結界がありますよ,ということをお示しする為なんです。そのいまここは,科学技術が最高に発展した結果,世界中の全ての人が,核爆弾の危機であると同時に,人間の最深欲求(聖書の神様と共に居て1人だけが満たすことができるヌミノース)を満足できない危険にさらされているいまここです。人類すべてを救うことができる,と同時に,生きるはキリストの結界ができるのは,人類すべての,お母さんの〈叫び〉とお父さんの〈叫び〉が、《この2つの叫びが響き合って心から自由になる大人になる》対等な関係がある場合だけです。
もちろん,お母さんたちは全ての子ども達の幼い頃の数年を司りますし,教育する習慣や毎日礼拝にする習慣,例えば,学校や家庭で,全ての関わりを始めますが,他方,家族を養うことや市民生活に関する毎日礼拝に加えて,敵と戦って勝つスピリットを養うこと,「聖書の神様が司る」心から優しい結界があることが目印になる特別な場の中で,特に敵と戦って勝つスピリットを養うことは,お父さん任せにしがちです。しかし,様々な子育てをする時の人間らしい《心からの優しさを抱く仲間》が「境界線を作る」ことは,いつでも,全くの敵を脅すことですし,自分と他者に分けて見る集団が,別の人種と見るようになるばかりではなく,別々に発展する人種と見るようになりまして,それを私は,「人類を上下2つに分けるウソ」と呼んでいるものができます。 「人類を上下2つに分けるウソ」の最悪ケースが,近代史の中で,とっても進歩的で,教育レベルも高い国で,目には見えないように,しかし,爆発的な力を発揮したのがナチズムだ,と私ども夫婦は,身に染みて痛感してきました。創造の試練の中で,心から自由になるように申し上げれば,敵と戦うスピリットが大きくなるのは,子どもの頃の家で「父親が自分よりも上に立つこと」と表裏一体です。この「父親が自分よりも上に立つこと」のは,罰を課し喧嘩をする悪い良心ですし,フロイトさんが,自分の心に土足で踏み込むばかりか,猛烈に破壊的ですから,自己破壊的にもなる,としたものです。このように私の上に立つ悪い良心は,自由を,人が自分を許す限界と共に定義し合うから,自由も自分を許す限界も,心狭くします。自由も自分を許す限界も,心狭くなりますと,そのすべての上に立つ悪い良心は,お母さんが生み出し,お母さんが育て上げることができる,「聖書の神様の創造を歓ぶ歓びを叫ぶ善い良心」とは相容れません。
いまここで気付きますのは,全ての人は,女でも男でも,2人の親がいて当たり前だ,ということです。というのも,全ての人は,1人のお母さんがいましたからですし,実際かつてお母さんのお胎にいましたし,最初の発達が終わるまで,お母さんの一部だったからです。また,「ほとんど」どなたでも,男でも女でも,そのお母さんから「大事にされ,あるいは,粗末にされ」てきましたでしょ。あるいは,「大事にすること,あるいは,粗末にすること」を心得ている母親代わりから,「大事にされ,あるいは,粗末にされ」てきましたでしょ。しかし,これって,全ての男性は,母親はこういう者だということを体験していますし,1人の母親と,知らず知らずのうちに,どこかで一心同体に成っている,ということでしょ。ですからね,全ての男は,心の中に1人の母親がいる,ということができますね。同じ形で,あらゆる女性は,子どもの頃に,1人の父親が身に沁みていますし,あるいは,とにかく,大なり小なり残忍な習慣の中か,大なり小なり心が広い習慣の中かに,結びついた男たちが身に染みていますでしょ。つまりは,女も男も,子どもの頃には,1人の母親の顔が(できれば,聖母マリアみたいに)ひれ伏して心響かせて応えてくれて,同時に,1人のお父さんの顔が,「気高く優しい」生き方と,その時代にその家族で正しいと思われる力や強さならどんなものでも歓んで使う「気高く優しい」生き方の気構えとを,熱心に一心不乱に態度で示したことが,身に沁みています。
人類皆兄弟山川草木悉仏性の絆の中でさえ,女の子でも,男の子でも,あの歓びの中にありますし,大人がスピリットと全体に目配せして,自らを空っぽにする人生の習慣と志の中にある,「スピリット」と「全体」を別々に味わう歓びに気付いてきたことが,私ども夫婦が赤ちゃんを守ってきた(訳注:生きるはキリスト になる)ライフ・サイクルに意味をプレゼントするのは,ひれ伏し心響かせて応える低い視座のおかげです。唯一の聖書の神様のいのちが2人に一巡する結界は,善悪を超えるところに「心から自由になる」という理想がある,という,唯一の聖書の神様のいのちが2人に一巡する結界は,私の後期の著作で,肝に銘じていただきたいことです。後期の著作は,『青年ルター』から中年の『ガンジーの真実』を経て,究極的には『ガラリアのいくつかの言い伝えと《私》が生きている,驚き感激して生きる習慣』までです。『エール大学評論』に寄稿したものです。
唯一の聖書の神様のいのちが2人に一巡する結界は,に気が付くと,人との関わりが,ビックリするほど変わります。
何度か触れたことですが,私自身「人の気持ちも知らないで…」と身近な人から言われ続けた歴史がとても長いんです。ですから,自分でも人の気持ちに鈍感なんだなと思いながら生きてきた歴史も長い…。
しかしながら,パウロさんが指摘している様に,試練➡踏みとどまる執念に似た力➡気高さ➡聖書の神様に対する心からの信頼という道筋を,繰り返し体験する中で訓練されたからでしょう。人の気持ちがスゥッと入ってくる場合が日常的にあるようになったみたい。
貴方も体験してみたい?
私は繰り返し体験してみたい。
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