エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#子どもに必要なこと #大人の確信と気高さ

2020-06-11 07:00:24 | エリクソンの発達臨床心理
 
#聖書の言葉 #単独者の恵み #感じる自分

 #聖書の言葉 #1人豊か #心のど真ん中   私の好きな聖書の言葉から。  イエス・キリストがまず私どもをあんなに信頼してくださったからこそ,キリストが皆さんの心......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  

をご参照ください。 

 Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」

イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。

 

 p.346,ブランクから。

 今朝は,p.347の第3パラグラフ,3行目から。

 

 

 

 5 思春期以降 :理想的,と 創造的

 

 私がこれまで心を込めた来たのは,驚き感激する私を創造することですし,昔みたいに、子どもの中にある毎日礼拝が,善悪を超える源だ,ということです。ここから,私どもは2つの志があれば,腑に落ちることができますでしょ。1つは,「毎日礼拝」が,いつも驚く体験で,内側から打たれるくらい強く促される気高さがあるかどうか,を体験的に試してみることができるでしょう。毎日礼拝は,若者たちがお互いの関わり方を腑に落ちて,自分の創造性を,大人とも違うし,子どもにはできなかった形で生き方で示すことになります。もう1つは,成人式(訳注,日曜礼拝)に戻ってもいいかもしれません。と言いますのも,その成人式(訳注,日曜礼拝)が,堅信礼や入隊式になるやもしれないからです。全ての人にとって,すでにお話しして参りました本当の自分を育てる道筋の中にある様々な元気は,赤ちゃんの時に見付けた信頼を,理想の育ちをするイメージに結び付けると同時に,いろんな視点やいろんな理想が腑に落ちるものにしてくれる式(訳注:日曜礼拝)の推進になります。本当の自分を育てる道筋の中にある様々な元気は,心から安心できる場に自分から参加している感じと,新たな仲間ができた感じを,大人になりつつ子どもにプレゼントします。ですから,大人と呼べるのは,2人が自分自身を育て,2人とも心から自由になるのが毎日礼拝の目的ですから,自分自身を育て心から自由になった人だけですし,子どもの暮らしの中で日々毎日礼拝の司式をする者になることを見通せる人だけです。

 私ども夫婦が驚き感嘆する私の育ちをスケッチしてきたことには,思春期以降の舞台も入ります。と申しますのは,お互い様の関係があるからでして,動物には,大人と若者が,生得的にお互いを大切にする本能のパターンでやり取りを全うすることがあるのですが,人間にあるのは,「子どもの時と若者の時に,母子が互いに大切にし合う生き方など」だけなんです。人間が生かされている意味を十分に体得することは,単に「縦の関係と横の関係」に加わるばかりじゃなくて,仲間の「人類を上下2つに分けるウソ」「夢中になって自分たちを共に賭けること」も意味します。仲間の「人類を上下2つに分けるウソ」「夢中になって自分たちを共に賭けること」は,(道徳なんて糞くらえ,狂ったように正義を無視し,軍事がお好き)敵視したものと,古いか馴染めないかとしたものを「締め出す」ことらになります。他のところ(エリクソン,1965)で,一心同体に成れない危機をクッキリ描くことを引き受けてきました。この一体になれない危機は,「『上に』忖度するウソの一体感」の習慣が,青年期に生まれることになりますし,その人が属する文化が創り出す忖度する気持ちが出来上がります。 縦横の関係と関係に対する本気度の2つうまく噛み合った場合だけ,若者は新しい人品を,聖書の神様が差配する縦横の関係と聖書の神様を実体験することと結びつけることができます。私は,仲良く一致することが大切にできず2人がバラバラになる関係一体に成り損ねと呼んできました。臨床的に(前に申し上げましたように)一体に成り損ねは,自分を出せませんから毎日礼拝できないことや一匹狼ですから毎日礼拝を怠ることに現れます。一体に成り損ねは,境界性人格障害や犯罪,危険な非行や病んだ狂信があるかどうか,あるいは,どこにあるのかを決める,心の病や政治や法律的な,善悪を仕切る壁を生み出します。若者らしい生気溢れる「鬼のお出まし」は,2人で分かち合えない中では,こんなものになります。人間らしさの欠片もない金太郎アメや,なるほど本当だと認め合う人品もない者に,あるいは,表と裏の2つの分けることができない本当の自分を生きることや,2人が互いに大切にし合う生き方が分からない者に,若者がなることから,その若者の心が2つにバラバラになることを(時には,嘲りによって,時には,面倒を画策することで),遊びにします。しかし,特に,科学技術の変化がとても速い中で毎日礼拝の全く新しい関わり方を見付けなくてはなりませんから,変わり身の速さ自体が大切な態度になります。聖書の神様と一心同体に成る見通しがないのは,聖書の神様と一心同体に成れない危機に大多数が陥っている時の印ですし,割り当てられた仲間の作り方の変化に「追いつく」ように,見通しを新たにすることで,初めて,聖書の神様と一心同体に成れない危機に大多数が陥っている現状を解決できます(エリクソン,1959)。

 私どもがいまの時代の(訳注:ナチスの)全体主義で目の当たりにしてきたのは,大規模なパフォーマンスの中で,驚き感激するヌミノース是非を分別する分別感じたままにピッタリと身体を動かすことを組み合わせた大規模な儀式をやって,若者たちの理想を巻き込んでいったことでしたね。 このナチスが大規模に若者の理想を巻き込んだやり方は,多くの若者に,変わり続ける変化全てを1つにする(訳注:ナチスのウソの)口約束に掛ける義務を課したんです。実際,このナチスが大規模に若者の理想を巻き込んだやり方は,古い信念全て(聖書の神様のいのちが一巡する前にあった⦅訳注:この世的な忖度を是とする信念⦆)を,「ダメ」と言われている人と故意に一体になった人の割り当てにします。

 私がこういったこと全てを,いまこの仲でご指摘するのは,毎日礼拝が本当の自分を創造することを理解する,という難題があるからです。と申しますのも,ここで問われていることは,(1)最初の毎日礼拝が,全ての人を超越する聖書の神様のいのちが一巡して,2人がピッタリと一心同体に成り自由になることと,ピッタリと一体になる必要があることですし,(2)イキイキした聖書の神様のいのちを実感する社会へと変える時と,私どもユマニストの過去を,いま世界を覆っているモノづくりの時代と1つにする時にも、若者が聖書の神様のいのちを1巡させることですから。

 しかし,毎日礼拝に対する問いを現代社会で問う前に私どもが触れなくてはならないのは,「大人の暮らしの中で毎日礼拝が家族に果たす役割」です。両親は,子どもの暮らしの中で,毎日礼拝の司祭になる最初の人です。それと同時に,両親は日曜礼拝のにも出ますでしょ。日曜礼拝をする中で,子どもの毎日礼拝をすることが,心響く関わりと聖書の神様の御翼を見付けることになります。それじゃあ,大人の日曜礼拝が,毎日礼拝が本当の自分を創造することにに一番お役に立つことは,いったい何なんでしょうね? それは,大人たちが毎日礼拝をする確信のある司祭になるのに欠かせない気高さを,日曜礼拝が繰り返し確かなものにすることでしょうね。

 

 

 日曜礼拝が大人の気高さを確かにするものであればいいでしょ。

 でも,現実はどうですか? かなり怪しいと私は考えます。

 しかし,毎日礼拝では,大人の確信と気高さが必要である,というのは確実です。

 

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