インターメッツォ:コミュニケーションの前提条件
あなたは、「未来を上手く描けます」か? 困難や試練に出会ったら、そのたびごとに、根源的信頼感を豊かにするチャンスとしたいものですね。 The l......
先日,テレ朝の夕方のニュースやニュースステーションで,取手市の中学三年生の女の子が自殺に追い込まれた一件で,「いじめはない」と一年以上ホッタラカシにした張本人,取手市教育委員会の指導課長,鈴木浩二さんのお役所仕事に強い憤りを覚えました。謝りに行ったということですが,頭は下げても,心はフンゾリカエッテいるその姿勢に,辟易と暗澹のないまぜになる気持ちになりましたね(http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000107560.html)。
「いじめはなかった」と一年以上ホッタラカシの鈴木さんに対して,母親が「いじめと感じたのはいつですか?」と問われると,答えに窮します。母親がさらに「組織ではなく個人として,述べられないんですか?」と重ねて問われても,だんまりでしたね。
なぜでしょうか?
そんなところで,何かを言えば,学校組織に対する裏切り,教員仲間に対する後ろめたさがあるからです。今は小学校の校長だという鈴木さん。ごくごく平均的な教員です。死を選ばざるを得なかった子どもを前にしても,まだまだ,学校組織,教員仲間を優先するのは,自分の出世,自分の居心地の良さを優先する自己中で狭量な人だからです。そういう類の教員が,平均的なのが,ニッポンの学校の「世も末体質」です。母親もその姿勢を悔しがりますが,こちらは,人間として当然です。
それは,さっきのルターとは真逆で,学校組織,教員仲間,お金以上の価値を知らないからです。偶像崇拝が示す最も醜い姿です。辟易と暗澹を強烈に感じます。
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