フロムの言う≪真の関係≫は、エリクソンが言うオリエンテーション、ふつうは見当識(あるいは、定位)と訳される言葉と同じ。それは、言ってみれば、アンパンマンを通して、やなせたかしさんが私どもに問いかけている「何のために生まれ、何をして生きるのか」という問いを自らの問いとして、問い続けながら生きることを意味するのですね。ですから、夢、はっきりとした目標を、はるか遠い頂に見ながら、山を登るのに、人生は似てくるんです。
p43の4行目の途中から。
もしも、一人の人がたった一人の人だけを大事にするけれども、他の人はみんな、どうでもいい、と思うならば、その人が人を大事に思う気持ちは、≪真の関係≫などでは全くなくて、馴れ合う関係、あるいは、利己主義のお化けですね。でもね、たいていの人は、≪真の関係≫とは、大事に思う相手のことであって、≪真の関係≫の中で何かをする能力だとは考えません。実際に、自分が相手を大事に思う気持ちの強さは、自分が大事に思う相手以外は、大事にしない時に証明される、とたいていの人は思い込んでいます。これは、これまで申し上げてきたのと同じ誤りです。≪真の関係≫は、人と関わる働きであって、魂の力だとは気付かないので、見つけなくちゃならないのは、いい相手だと思い込んでいます。後は野となれ、山となれ、というわけです。この手の態度は、絵を描きたいと思うけれども、絵の勉強はせずに、描くのにいい相手が見つかるまで待って、それが見つかれりさえすれば、上手に描ける、と主張するのに似ています。もしも、私が一人の人を大事に思ったなら、すべての人、世界全体、人生までもが大事になります。もしも私が誰かさんに「私はあなたを大事に思う」と言えば、私は次のように言うに決まってます。「君の心の中に、いろんな人がいるでしょ。だから、君を大事にすることが、いろんな人を大事にすることになるし、君を大事にすると、自分まで大事にした気になるよ」と。
≪真の関係≫はオープンハート。
≪真の関係≫は宮沢賢治。
≪真の関係≫は水晶のように光を独占しない。
≪真の関係≫は、ハッキリと価値アリと認められたように、
すべての隣の人を ハッキリと価値アリと認められるようになる(第一コリント 第13章12節、ただし、私訳)
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