子どもや弱い立場の人を世話することは、同時に、文字通り本来の意味において、礼拝を司式することになります。お寺や教会の儀式に参加することが礼拝(仏教では「らいはい」、キリスト教では「れいはい」)じゃぁないんですね。
面白いでしょ。
p232第2パラグラフ。
しかし、私どもは「母子関係」を素材にして、ユートピアをこしらえてはなりません。赤ちゃんの頃のパラダイスは捨てなきゃダメ。でも、それは一度たりとも受け止められたことのない事実。赤ちゃんの頃の≪やり取り≫は、ほんの始まりにしかすぎませんし、もっと複雑な出会いに繋がりますし、その子どもも、幅広い関係の人々とその子どもとの出会いも、もっと複雑になります。私がここで一つ指摘しなくちゃならないのは、人間の生死に関わるほど大事な、一連の根源的強さは、オートノミー、すなわち、自律と意思だ、ということですし、また、その子どものわがままが大人の意思とぶつかり合う状況は、生まれたての希望が≪やり取り≫する割合とは、違ったバランスであることを、ハッキリさせなくちゃならない、ということです。でもね、大人はどなたでも認めなくてはならないことは、良かれ悪しかれ、自分もそれまで分かってなかった「自分自身」と「意思」のことをたくさん学んできた、ということです。それは、他のやり方では学ぶことができないものなのですね。
大事なとこですね。子どものわがままを「矯正」しようとする状況のバランスと、生まれたばかりの希望が≪やり取り≫する状況のバランスとは、全く異なる、ということです。子どものわがままを「矯正」するような大人ですと、子どものオートノミーと意思は台無しです。
子どものわがままとも≪やり取り≫するようですと、赤ちゃんの希望と≪やり取り≫することにもなりますから、子どものオートミートと意思を育むことになります。
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