昨日、東京の内村鑑三記念キリスト教講演会に参加しました。目黒区中根の今井館聖書講堂で、昨日2時からでした。淀橋町柏木(現在の新宿区北新宿、大久保駅の近く)にあった今井館聖書講堂が、大久保通の区画整理で、目黒区に移築されたんですね。
久しぶりに自由が丘に降りて、散歩しながらゆったりと、途中熊野神社によったりして。今井館に行くと、早かったせいか、まだ10人も集まっていません。しかし、間もなくギリシャ語の先生、武藤陽一先生が奥さんと一緒に来られた。奥さんとは、私が学生の頃、野村実先生のお宅で月に一回やっていた、医療・福祉の学びの会でご一緒したことがあります。体重が増えたことを「ずいぶん大きくなりましたね」と笑われてしまいました。今手元に見当たらなくなっている「キリストのまこと」の論文をまた戴けるように、武藤先生にお願いしました。
講演は、北海道の大塚寿雄さんと「志木・聖書を学ぶ会」の三浦永光さん。三浦永光さんは津田塾大学で哲学を講じておられた人で、西村先生の弟子だから、私の兄弟子に当たる人だ。
三浦永光さんの演題が「『物質的豊かさと恐怖』よりも『簡素な生活と助け合い』」です。これは、箴言15章16節~17節「財産を多く持って恐怖の内にあるよりは、乏しくても主を畏れる方がよい。肥えた牛を食べて憎しみ合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい」から採ったものです。安倍政権の野蛮な政権運営を批判しつつ、聖書の真理を明らかにしていて、こころがキッパリする感じの講演でしたね。自民党の憲法草案(2012)が国防軍を作り、国防の機密を漏らすなどした場合には、裁判所とは異なる「審判所」を作ることが明記されていて、軍法会議までやるつもりなのがハッキリ分かります。
特に印象に残ったのは、大飯原発訴訟の「福井地裁判決」でした。これは長いのですが、引用しておこうと思います。私たちが原発廃止を考える時に、1つの目印になるものだからです。日本の裁判所もまだ捨てたものではないとツクヅク感じました。
「被告(注・関西電力)は本件原発の稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等を並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的に許されないことだと考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。 」
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