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Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.106,ブランクから。ここ数日分も,ご一緒に。
ゆとりをもって学ぶ力と(訳注:生きている実感を)正しい生き方(の形にする):その正しい生き方とその正しい見方
その「ゆとりをもって学ぶ力」は,日常生活に,もう1つの礼拝を付け加えます。すなわち,「正しい生き方を全うする」ように,日常生活を礼拝にすることです。この礼拝が日常生活にありませんと,今まで申し上げてきた日常生活を礼拝にする様々な原理も,子どもと大人をパートナーにする躾をなくしてしまうことでしょう。子どもと大人をパートナーにする躾のおかげで,日常生活を礼拝にする様々な原理は,細々とした一連の,ニーズにピッタリと見合った関わりと,やり取り上手な心構えと上手なやり取りを全うする,全体像の持つ品性に,ピッタリと固く結びつくことができるんです。新しくて,いつまでも変わらない形を創造するために,物事で全うできることがあることを示したい,と熱心に願う気持ちは,ゆとりをもって学ぶ力の中で成熟します。あるいは,立って復活するのに必要な知恵がついてきますから,子ども達は学校にやられるようになるんでしょう。ここで,いきなり変わってしまうのですが,遊びは勉強に形を変えますし,ゲームは競争と協力に変わりますし,自由に想像することが,様々なやり方に十分に注意を払って,やらなければならないことに,変わりまいます。決まったやり方のために,自由に空想していることが,人に伝わるもの,説明できるもの,決まった課題に合わせることができるもの,にします。日常生活を礼拝にすることも,今や,真実に,学校と呼ばれる段取りの中で,共に働くものになります。すなわち,日常生活を礼拝にすることは,生徒,教員,クラスのみんながやり取りする中で,共に働くものになります。あらかじめ予定された一連の課題が,文化の全体像が持つ言葉の成長力と身体の成長力に従って組み立てられて,経済的に,技術的に,共に立つことで復活する復活を分かち合うのに欠かせない初歩の様々な術が教えられます。それは狩猟社会でも,農業社会でも,商業社会でも,産業化社会でも,文字通り,科学的社会でも,同じです。様々な社会がそれぞれが,こと細かく,「日常生活の中で,正しい生き方,正しい振る舞い方を礼拝にしていきます」。「日常生活の中で,正しい生き方,正しい振る舞い方を礼拝にすること」は,(ここが,猟や漁をする部族の中では,子どもの頃の様々な生き方をお話しした時に,一番大事な点でした)善く生きる生き方ばかりではなく,うまく生きる生き方に,生まれ変わって,踏みとどまることになるはずです。
私どもはここで立ち止まって考えなくてはならないのは,学校が,経済的な理想や競い方を良しとする学校の在り方ですし,どのように(様々なもの,獲物、競争相手などを)破壊する働きが,建設する働きとともに,学校にあるのかという学校の在り方です。私どもは,短い事例の中で見て分かったのは,ユーロックの人たちが,サケに信心深く語りかけ,思いを巡られていたことでしょう。ユーロックの人々は,サケに向かって,神の国の中で,君たちは永遠の種ですからね,と約束していますけれども,それは,君たちがわれらがユーロックの人々にたくさん捕まって,飲食に供する限りだからね,ということです。そして,事実で,サケの遡上のピークの時に,毎年クラマス川に,厳かな礼拝を執り行って,大喜びして,ダムを作ると,ユーロックの人々は,大漁に恵まれます。たほう,十分な数の大人のサケが上流の産卵地まで遡上できるようにしますし,だからこそ,十分なサケの子孫は,下流に下り,決まった時期に戻るまで,大海の中に消え去ることができます。自然を超越する不思議な確信にピッタリと合ったこういった生業は,また,土を耕す農民にとっても必要なことですが,それは,自然が丸裸にされることを受け止めて,毎年実りの豊かさをもたらすとともに,豊かさを,しかも十分に豊かなままであることを保たなくてはなりませんから。自然を超越する不思議な確信は,商人が自立するのにも必要です。というのも,商人も,商品を集めて,人々から利益を生み出しますが,その際商人は,人々を,奴隷としてではなくても,市場の道具か操り人形として,利用するからです。工業化社会が進みますと,とても解き難い問を突き付けられますね。その問とは,的外れなことをしている,という昔ながらの感覚はどうなるのか? という問です。というのも,人間様もまた,機械の役に立つためには,自分が機械にならなくてはなりませんし,人を機械にしなくてはならないとともに,大事な決定を機会に譲渡さなくてはなりません。しかしながら,的外なことをしている,という昔ながらの感覚は,機械を完璧に動かしていることによって,誤魔化せます。機械を完璧に動かすことは,バラバラになってしまったこの世の中のカケラの定めにピッタリと合っています。一つもかけたところのない,聖書の神様が予定している高尚な秩序であるシャロームに貢献する者は,幸いですし,利益と称賛も手に入れますから,ある程度まで,誰を,どんなことを利用し,無視したのかを忘れることができます。そこには,自分自身の気が付かずにいる能力も含まれます。
とにかく,学校の力は,日常生活の中で,自分がやることを正しい生き方にする礼拝を,心の中に生みます。この礼拝は納得できるし,腑に落ちたものになるのは,この礼拝が,実感はあるし,すでに加わってもいる高貴な秩序(神の国)になるからです。この「正しい生き方」の視点が,ヌミノースの原理,生きている実感を話し言葉にしてルールにする原理,生きている実感に則って遊ぶ原理に,付け加わりますと,本物の日常生活の礼拝の様相を理解することに近づいた感じになります。
ゆとりをもって学ぶ力に馴染めないのは,「自分が生きている実感を下に見る」感じです。教えられた正しい生き方の求めに,心身ともに及ばないと感じることです。たほう,正しい形にとらわれすぎること,完璧主義,中身のない形ばかりをやる危険,も分かります。この舞台にも,偽物の礼拝を名付けなくてはなりませんが,ここでは,偽物の礼拝は,「さまざまな仕事」が人を作り出す格好をしたり,一人前の腕が真実を作り出す格好をしたりします。それは,お役所仕事でしょ。名前がどうであれ,ハッキリと申し上げておかなくてはならないのは,人が正しい生き方や筋道を得たいと願う願いも,また,あの自分を売って子分になる生き方にもなるという事実です。この自分を売って子分になる生き方によって,マルクスが「専門バカ」と呼んだ者にみんながなってしまいます。この専門バカとは,良いことをしたいがために,人間が一心同体になることを忘れて,拒否してしまっているんです。人が一心同体になることの只中に,大切な,しかも,人を傷つけるかもしれない,働きがあります。
青年期と理想:
本当の自分と真実
子ども時代の終わりに,自分自身で見通す「自分がやるべき役割(ミッション)」は,条件さえ良ければ,全ての役割の中で一番確かな役割になります。というのも,ミッションのおかげで,様々な技術の点で,私どもは確かにされますし,私どもは,目に見える仕事の中で,生きがい感を体感することができます。
ミッションがあると,生きがい感を体感できる。エリクソンの主張は,神谷美恵子さんの主張と重なりますでしょ。
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