日本の議会では、強行採決や「難しい言葉」を使った官僚的答弁ばかり見せられていますから、まさか、議会での発言に「品格」があるとは、夢にも思いませんでした。しかし、《民主主義の「パレーシア」》では、集会・議会で発言することそのものが、人品、倫理、人間関係における品格が当然あるものと見なされていたということは、ある種ショックでしたね。
しかし、「パレーシアステス」が敢えて自由に発言する自分の特権を行使するのは、まさに、多数派を脅かすような本当のことを1つ、ハッキリと話し言葉にする時です。というのも、アテネの指導者達が追放されたのは、彼らが多数派の反対することを提案したから、という理由だけでしたし、それどころか、議会が、1人の指導者の強力な影響力によって自分たちの自由が制限されると考えた、という理由だけの場合さえありましたが、それは、あの有名な裁判の場面でしたから。ですから、このように、議会は本当のことに「抗議した」のでした。これは、《民主主義的「パレーシア」》の制度的背景ですが、それは《王様の「パレーシア」》とハッキリと区別しなくてはなりません。《王様の「パレーシア」》では、1人の助言者が、最高に誠実で、役立つ助言をします。
パレーシアステスは、いつでも、追放される覚悟がいるのですね。パフォーマーのエグザイルはカッコよすぎですが、実際のエグザイル(亡命者・国外追放者・流浪の民)は、真逆であって、定まった住居も仕事もなく、すぐに生活に困窮し、惨めな生活をせざるを得ないはずです。
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