ルターの発作に対するいろんな見方があることが分かります。
ルター本人は、この発作の話に一度も触れたことがありません。ただし、ルターは後年になって弁舌さわやかな時期に、体のことでも心のことでも苦労したことについて、並はずれて自由に話をしました。ルターという人は、1つの洞察になるまで闘った、こういった苦労していた状況について、非常に鮮明に覚えています。しかし、ルターはすっかり意気消沈した苦労に関しては、この限りではありません。このように、ルターは晩年になって、25才の時に、恐ろしくも、汗ばむほど、おっかなかった発作になったことをよく覚えていました。それは、彼がコルプス・クリスティの祝日に、自分に先生のシュタウピッツ先生の後ろで、行進しているときのことでした。シュタウピッツ先生は、聖域中の聖域に達するような立派な人でした(このシャタウビッツ先生こそ、後で見るように、ルターが出逢い、認めた最高の父親代わりでした。この先生は、ルターが自分の部下の時に、真実な「宗教的動物」であることを認めて、治療的な英知を用いて、ルターを治療した人でした)。
この人にあって、あの人有り、ということでしょう。ルターは、シュタウピッツ先生というメンターに出逢うことによって、はじめてルターになれたのです。
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