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「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
identity and the life cycle 『聖書の神様と毎日一心同体になること と 聖書の神様の心から優しいスピリットが,目の前の相手と私の関係の中で一巡すること』
p.104のタイトルから。
今朝は,p.105最の,1行目から。
「1つも傷がないシャローム平和 対 希望を見失うこと と 持ち味が死んでること」
一心同体に成る生き方の中で,森羅万象と全人類を大切にして,(訳注:新約聖書の中でパウロさんが語っているみたいに)生きていることの酸いにも甘いにも,自分をピッタリと合わせて生きてきた人だけが,7つの舞台の果実を次第に育てることができます。その果実に相応しい言葉に,シャローム平和,よりもいい言葉はありません。明確な定義がありませんから,シャローム平和のスピリットの目印を示しておきましょうね。 シャローム平和の目印は,聖書の神様の約束にただただ従って生きるはキリストを(生きている実感に従って思うままに)生きることと,聖書の神様のいのちが一巡して2人を一心同体にする主の道のパートナーになることを,(訳注:驚きと,圧倒的で静かな感激の中で),もろ手を挙げて受け容れることですし,自分にとって大切な人たちを,掛け替えのない仲間であり,聖書の神様のいのちが一巡する,掛け替えのないパートナーでなくてはならないことを,もろ手を挙げて受け容れることです。ですからねぇ,シャローム平和って,生みの親の願いとは真逆の真新しい願いですし,自分は際立った特別な存在でなくてはならないとする願いから自由になり,自分の人生を,聖書の神様の約束にただただ従って,生きるはキリストを(生きている実感に従って思うままに)生きることが聖書の神様の思し召しに応えることだ,という事実を,もろ手を挙げて受け容れることなんです。シャローム平和は,遠い時代の人でも,追い求めていることが違っても,男とも女とも仲良しになる仲間になる心の習慣(仲間になる意志)ですが,その仲間とは,人間らしい誇りと心からの優しさをもたらす聖書の神様の指針と目的と物語を作り出すもんです。様々な生き方全てが繋がっているから,人間のぶつかり合いに意味があることに気が付いたけれども,シャローム平和であるキリストの低き視座に立つことは,生きている実感や仲間の習慣を脅かすものに抗って,自分自身の生き方の誇りを守ってくれます。というのも,2つに分けるウソのない人生とは,唯一の神である聖書の神様のいのちを,唯一の真の賢さの源キリストのスピリットと分け合う恵みであることを,人間は分かっているからなんです。それに,自分にとって,人類すべてのシャローム平和の成否が,自分に割り当てられた唯一のシャローム平和の生き方を日々できてるか,にかかっていることも,体得底で分かっているからなんです。
それで,自分がシャローム平和の生き方を日々生きる初めは,繰り返し病んで元気になった 度重なる試練を経て体得した英知に基づいています。何がなくても,ここでこそ,教えを説く者も,教え通りに献身する者も,キリストの中で始まった,生きている実感を,自分とキリストが共に居る結界の中で,育てることができます。しかし,私が臨床的に付け足したいことは,このように,ひとりびとりが順序良く育ってシャローム平和に至ることが足りなかったり,ぶち壊しにされていたりすれば,その目印は,希望がない,ということですし,知らず知らずのうちに,自分を空っぽにする無私が怖い,ということです。自分を空っぽにする無私になるのが怖いと,唯一無二の聖書の神様のいのちが一巡する毎日が,最高の人生だと,体得底で身に着けることができません。希望を失いますと,「時間が足りません」,「別の人生を始めようと思っても,シャローム平和に至る別の道を試みようと思っても,時間がありません」と言い訳をする気持ちが顔に出ます。そのように1つも希望がないことは,持ち味が台無しなこと,人嫌いなこと,あるいは,キリストを生きて自由な生き方やキリストを生きて自由な人たちを,いつでも侮り嫌うことに,隠れています。
希望がない人は,自由がお嫌いなんです。
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