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Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.113,第3パラグラフ,6行目から。ここ数日分も,ご一緒に。
本物の大人になること と 日常生活を礼拝にする中で子どもを大切にすること
若者の見習い期間から「日常生活を焼き入れする礼拝をして,自由平等友愛の生き方を不動にした」後,「男女が一体になる儀式」によって,若い大人は「許し」を得て,新たな仲間になることができます。それは,1つの生き方を次の世代に伝える,ということです。宗教の日常生活を礼拝にする礼拝は,この点で,徹頭徹尾聖書の神様に従うことですし,自由に率直に話すことでもあります。しかし,大人が習慣にしている礼拝が,自分の文化で英雄,精霊達,神々,様々な王,創立者達,様々な決まりを超越する,あるいは,その上をいく,自分自身のお手本を求めるかどうかにかかわらず,その大人たちがまずしなくてはならないのは,子どものころと青年のころの日常生活を礼拝にする,何気なく日々やっている礼拝を,本気で心響くものに繰り返しして生きて,繰り返し不動にすることです。なぜならば,子どものころと青年のころの日常生活を礼拝にする,何気ない礼拝こそは,文化を1つに一体化させ,秩序を創造できるからです。何気ない日々の礼拝のおかげで,大人も価値ある自分を体感できます。というのも,誰もが抱く元気をもらいたいと願うニーズには,何気ない日々の礼拝を司式する者が,聖書の神様の命が一巡する中で,繰り返し心強く元気をもらうニーズも含まれているからです。何気ない日々の礼拝を司式する者は,隣にいる子どもの目から見て,驚き感激するヌミノースのモデルに歓んでなる,ということにドンピシャリですし,悪を裁き,目には見えないけれども,目標になる様々な大切なこと(訳注:それが目に見える形を取る,倫理と人間らしい習慣)を伝えるものとして,子どもに関わる,という点でもドンピシャリです。ですから,日常生活を礼拝にする大人の原理とは,「聖書の神様が創造する業に参加する」ということです。これには,親として,教師として,生産者として,治療者として,などの関わりも含まれます。1人の大人は,正式の人をよしと認めるマントをまとっているみたいに,「私は,自分がしていることを自覚しています」という確信の中で,繰り返し元気にされなくてはなりません。唯一無二の恐れぬ気持ちが盛り上がるのは,父親側においては,父なる聖書の神様,すべての王様たちを超越する方を,1人の親イメージとして,見通すことによってです。その親イメージとは,聖書の神様が私ども人間を,聖書の神様のイメージの中で創造した時に,聖書の神様が自分のしていることを,ハッキリと自覚していました。あるいは,創立者,預言者,偉人で,一つの新世界のイメージの始まりを,皆に知らせます。今は女性が新しい世界イメージを,私どもに見せつけていますが,父権的な権威が多くの苦しみを味わう時,まごうことなく明らかになってきたのは,男が女子どもを支配してきたことが,日々の礼拝で良しとされた権威に基づいていた,ということでしたでしょ。すべての権威の中に必ずある弱い者いじめをする点で見るとき,創造的な,日常生活を礼拝にする礼拝の対になる,形ばかりの礼拝の特別な形が,自分が権威を征服し,誤って権威を奪い取った者の,形ばかりの礼拝です。お望みならば,「権威主義」と呼んでもいいでしょう。しかし,ここで,私どもは,これまで述べてきた日常生活を礼拝にする礼拝や,実際の日々の様々な礼拝の中で,大人の割り当てに近づきます。これは触れなくてはならないテーマですが,ここでは触れません。
しかしながら,「古老の賢慮」に関する1つの言葉は,日々の礼拝の中で,聖書の神様の命を一巡します。日常生活を礼拝にする礼拝のお勤めは,「聖書の神様が示す全体像,すなわち,シャローム」だと思いますよ。この「シャローム」こそが,聖書の神様の命が一巡する大切さを不動にします。私がいつもウィリアム・ブレークの詩を味わう度に,ブレークが示しているのは,古老の賢慮は,一番上手くいけば,陽気で楽しい子どもらしさによって,(繰り返し)血が通ったものとなり,聖書の神様の命が充満する恵みに,恵まれる,ということですね。古老が伝統的に果たしてきた,日常生活を礼拝にする英知を体現する役回りは,古老の賢慮が,陽気で楽しい子どもらしさの中で,血の通ったものとなり,聖書の神様の命が充満する恵みを実現するものでしょう。しかし,現代の生き方は,多くの人の生き方を見てみると,不動で特別な人はごくわずかだと気づかされる経験しますから,ウィリアム・ブレークは,もしかしたら,古老の賢慮は,子ども騙しのチャチナおもちゃでしかない,ということを言いたかったのかもしれない,と訝しく思うほどです。古老になる前の数年,絶望と自己嫌悪を体験しつつ,私が,聖書の神様に誓って申し上げてきたのは,ウソとゴマカシのない正直な「聖書の神様が示す全体像,すなわち,シャローム」の強さです。その「シャローム」を子どもたちは直に受け止めます。シャロームは,老人と少年がお互いに親しみを感じる場です。しかし,もちろん,老人の時期にも,独自に,形ばかりの礼拝があるわけです。つまり,それは,思慮が浅いのに,賢い恰好をすることです。「物知り顔」です。
もうお判りでしょう,日々の様々な礼拝に,必ず付いて回るものがあることを。子どものころの日常生活を礼拝にする様々な礼拝を組み合わせ,新鮮なものにして,さらに,聖書の神様が創造されたものをご覧になって「とても良かった」とおっしゃったことを,「なるほど,本当だね」と確認することによって,日々の礼拝は,大人の命を聖書の神様の命と一体にするのに役立ちます。それは,日々の礼拝のおかげで,大人の命が聖書の神様の命と一体になることと,日々の礼拝を司式することは,聖書が教えている新しい人を創造することになりますし,新しいものや新しいアイデアを生み出すことにもなります。それから,もちろん,聖書の神様の命が一巡することと様々な習慣を,1つのキリストの命に満ちた全体像のシャロームの中へと結びつけることによって,新しい人となった人々は,聖書の神様といつも一体だと実感する心の習慣を創造することもできます。この心の習慣は,指導者やエリート層に限られたものではありません,むしろ,すべての人々のものです。それから,ほとんど思い煩うことがないことですが,日常生活の中で聖書の神様の命を礼拝すると,大人は死が全ての命の不可知な裏庭であることを忘れることができますし,そんなものは忘れてもいい,ということになります。それから,日常生活の中で聖書の神様の命を礼拝すると,1つの時空と科学技術を共有する人々と,世の中の見方を分かち合うという,心から自由な人が持ちうる現実を最優先するようにもなります。日々の礼拝を生活のど真ん中に置く生活をすることによって,その礼拝の場では,死は,人類皆兄弟という現実が,キリストの命が充満する恵みとなる場の境目になります。
私がいま並べたいくつかの原理は,日常生活を礼拝にする中で私が生まれ育つ場で,「あれですね」と判るものですから,その原理が,聖書の神様が創造の前に上から決めていたことを図表にして示しましょうね。この図表は,議論や研究のためにお役に立つでしょう。この図表が示すことは,私が生きている実感を創造する様々な舞台をまとめるのにお役に立つ,日常生活を礼拝にする礼拝,一つ一つが,大切な日々の様々な礼拝に,1つの根源的な原理をプレゼントする,ということです。日々の礼拝がプレゼントする,この唯一の根源的な原理こそ,社会の様々な根源的な習慣をひとまとめにするのに,お役に立ちます。つまり,それは,宇宙の秩序に対する聖書の神様からいただく信頼ですし,法と正義に対する心の習慣ですし,理想と悪を峻別する分別ですし,科学技術の基礎ですし,価値あるものに対する見通しです。
聖書の神様が約束してくださる場へ進む全体像に関して,申し上げなくてはならないのは,日常生活を礼拝にすることも,日々の礼拝も,あらかじめ決まっているものは何もない,ということです。というのも,日常生活を礼拝にすることは,習慣にするという意味で,単に繰り返したり,馴染んだりするのでは全くありませんから,日常生活を礼拝にする本物の礼拝とは,私が生きている実感が生まれ育つことに根差しているのに,いつでも新鮮な驚きが必ず湧き上がってくるものだからです。日常生活を礼拝にする本物の礼拝は,思い煩いでしかないと思っていたどうしようもない闇悩みの中に,思いがけず,新しい,互いに大切にしあう約束と光があることを,見つけ出すことです。
闇の中にこそ光があります。
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