インターメッツォ : 生活が陶冶する一人ではできない不思議 自分のことはいったん脇に置いとくと、見えてくるもの 他者の「声なき声」に応えるためには、日ごろから自分自...>......
最近ですと,ブログの「聖書の言葉」は最後に記す感じになっていますけれど,ヴァン・デ・コーク教授の後に今宵は書きたい気分なんですね。聖書の言葉が,心の中から囁くからなんですよ。「全てには時がある」ってね。何度体験しても,実に不思議で,実に跳び上がるほど嬉しいものですね。ザアカイや「長血の女」や「エリコの盲人」,「放蕩息子」の気持ちがよくわかります。
これは,『旧約聖書』の真ん中あたり,「諸書」と呼ばれるところ,「詩編」の後すぐに出てきます。その第3章1節です。新共同訳の翻訳はリズムがいまいちで,何となく嫌なんですね。それで岩波訳を参考にして次のように翻訳しました。
「日の下には,すべてに時の定めがあり,すべての出来事に,時の定めがある」
人生は,偶然の連続で,「明日は明日の風が吹く」というように,偶然に左右される,その結果,自分も右往左往する,と言うような人生観,生き方もありますね。多くの日本人はそれでしょう。
でも,聖書の人生観は,全てには時の定めがある,人生には台本がある,台本を書いたのは神様だ,というものですね。そのことにふと気づかされるのは,人生の偶然と多くの日本人が考えることが,いくつも重なって,まるで,その時に出逢うべき出来事,出逢うべき人物,出逢うべきもろもろに出逢って,1つのまとまりになる感じがある時だろうと思います。
私も今は申し上げることができませんが,ここ数日そういうことが重なりまして,ふと「全てには時がある」と言う聖書の言葉が浮かんできたんですね。
ですから,「神さまのなし給うことは,すべて時の定めに適って,美しい」〈うまく出来てる〉と言う感じにもなり,爽やかな喜びに包まれることにもなりますね。
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