#ありがたいねと伝え合う2人 #晴れ晴れと生きる心の習慣#聖書の言葉 #手応えのある歓び #一人豊か #期待が鍛えられるとき 聖書の言葉: ἀλήθεια アレセイア 真実とは 再び 無意識の悪魔の仕業 smil......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
identity and the life cycle 『聖書の神様と毎日一心同体になること と 聖書の神様の心から優しいスピリットが,目の前の相手と私の関係の中で一巡すること』
第三章,p.108から。
今朝は,p.109の第2パラグラフ,13行目から。
エゴ・アイデンティティの課題
たくさんの本(エリクソン,1946,1950a, 1950b, 1951a)で,私が「エゴ・アイデンティティ」という言葉を使ってきたのは,確かな理解をハッキリとお示しするためです。その確かな理解とは,人間を2つに分けるウソに侵されていない真っ当な人間ならば,思春期の終わりには,大人のなる様々な課題に備えるために,大人になる前の経験全てから引き出す予定のものです。この言葉を私が使うのは,魂を自由にする務めの者の戸惑いを反映しています。魂を自由にすることを務めにする者は,1つの新しい思いに導かれますが,それは,理論に没頭したからではなく,むしろ,他の領域(社会人間学や比較教育学)に臨床していて気付いたことが増えたからですし,聖書の神様のいのちが一巡する時,そのような気付きが増えると臨床の仕事に役立つことになっているからです。最近,臨床的な礼拝をしていますと,この期待をなるほど本当だねと感じますね。ですから,一心同体に成る課題を,また,お話しし,見直すことをお許し下すった2つのチャンスを歓んでお引き受けしたわけです。この論文は,この2つの発表を1つにしています。私どもの目の前にある問いは,アイデンティティ,聖書の神様と一心同体に成ることを体得底で捉えることは,本質的に,ひとりびとりの魂が聖書の神様に従うことなのか? それとも,無意識的なエゴが魂を自由にする演劇を,真実と見做してもいいものなのか? ということです。
まず,アイデンティティ,聖書の神様と一心同体に成ること,という言葉。私が知る限り,フロイトさんは,たまたま一回,アイデンティティ,という言葉を,聖書の神様に魂が従う意味で使っています。フロイトさんが,「インナー・アイデンティティ 魂が聖書の神様と一心同体に成ること」について話したのは,まさに,自分がユダヤ民族に繋がっていることを雛形にしようとした時でした。「インナー・アイデンティティ 魂が聖書の神様と一心同体に成ること」は,人種や宗教よりも,2人が互いに向かい合って生きる関係や,理性を発揮できなくさせてしまう悪意から2人が互いに解放され自由になる関係に,基盤があります。ここで,「アイデンティティ,聖書の神様と一心同体に成ること」は,ひとりひびとりが,自分の仲間の1つの固有の歴史に育てられた,1つの固有の強みと結びついている,ことだと言います。しかし,「アイデンティティ,聖書の神様と一心同体に成ること」は,本音と建前に分けることができないひとりびとりは,自分ならではの発達にあの隅の親石,キリストと関係します。と申しますのも,「聖書の神様との約束に基づいて一人になる代価を払って行う,朽ちることのない礼拝」は,フロイトさんの暮らしの,ど真ん中で,聖書の神様のいのちが一巡するものでしたからね(エリクソン,1954)。今考えているのが,自分の中心軸で,仲間の魂が共にくっ付い生きている視点と結びついて何某かと一心同体に成ることです。
一心同体に成るのは2人ですが,それは同時に仲間の魂が共にくっ付いている生き方と結びついてもいる,という点で,アイデンティティはアタッチメントを考えるうえでも大切です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます