シンボリズムは深い精神活動だそうですが、それは、形骸化、偶像化しやすいものなんですね。そのいい例が「教会」でしたね。南原繁の言葉を借りれば、「何よりも大事なのは、ガイスト(精神、眼に見えない魂)」なのですね。
Young Man Luther 『青年ルター』のp187の第4パラグラフから。まだまだ、ホイジンガの引用の続き。
ローマカトリック教会がキッパリと教えてきたことは、罪とは単に、1つの事でもないし、1つそこにあるものでもない、しかし、罪は、どうしたら、失敗を食い止めるんでしょうか? すべてが人の心に罪をしみこませるんですからね。生まれながらの本能からすれば、罪は穢れ、堕落となる材料に見えますし、したがって、洗い流したり、打つ壊したいとおもうものですが、罪が極端に体系化されたり、譬えを用いたり、教会そのものが裁いたりすることによって、生まれながらの本能が強められました。
教会が罪の許しを述べ伝えるのではなく、罪を裁く側になっちゃう。人々も許しを感謝を持っていただくのではなくて、罪深さ、罪責感を強めちゃう。
こうなると、聖書に書いてある「罪の許し」「救い」はどうなっちゃったのか?
組織や教義が体系化されると、最初のドキドキした体験が失われちゃう。カーソンの『不思議を感じる心』と同じオリエンテーションですが、許しに気付くことの方が、罪の種類を知ることよりもはるかに大事なのに、「これはダメ」「あれもためだ」と知ることが優先されがちになっちゃう。
何故なんでしょうか?
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