今宵の聖書の言葉は,光,です。
今宵のエリクソンが,光について触れてましたから。
光。富士山に登る人は,ご来光を眺めるための人が多いそうですね。新宿あたりから夜行バスで,富士吉田口まで行って,夜のうちに登る強硬登山。体に悪そうですね。でも,それまでしてご来光を仰ぎたい気持ちを,多くの人が抱いていることがわかります。
ご来光,というくらいですから,光は向こうからやって来るものですね。それをみんな知っています。なぜでしょうか?
今宵のエリクソンは,「お互いに大切な存在として認め合い,希望を抱きあう」こそが光だといいました。お互いを認め合う人も,向こうからやって来るのかもしれませんし,希望も向こうからやって来るものなのでしょう。
向こうからやって来ると言ったら,外からやって来る感じですね。もちろん,富士山のご来光みたいに,外からやって来るご来光もありますね。でも,どうやらそれに限ったことでないようですよ。
つまり,心の中にも,向こうからやって来る光がある,ということなんですね。それはなぜそうなっているのかは,よくわかりません。
お互いを認め合う場合でも,認め合うためには,その2人に共通する大切なことが必要です。その大切なことは,2人とは独立している価値,あるいは,2人から超越した価値ですね。たとえば,真心ということが,その価値になる場合がある。その真心が大事だという思い,あるいは,その感じが2人にあって,初めて,2人は,その真心を介して,お互いを大切な存在として認め合うことができる,ということでしょ。
心の中で,向こうからやって来る光も,ご当人とは独立して,あるいは,ご当人から超越したものでしょうね。少なくとも,自分の所有物,とは到底思えないから,自分から来た,とはとても言えずに,向こうからやって来る,となるわけです。
向こうからやって来るわけですが,アポがあって,やって来るわけではありません。「今日,3時に行くからね」ということがわかりません。「油を用意する乙女」の話しみたいですね。じゃぁ,どうしたら,光が来たって分かるのかしらね?
それは,山で霧が晴れて,稜線が見えたときみたいに,見通しが明るくなる,ということがありますね。でも,それだけじゃないでしょう。霧が晴れて,日差しが差せば,ブルブル震えていた体も,温かくなりませんか。そうです。ぬくもりを実感しますでしょ。
そうやって,光は,毎日お日様が東から上がるみたいに,心の東側から(オリエンテーション),繰り返し,向こうからやって来て,ご当人に行先(オリエンテーション)を,はっきりと,温もりとともに,教えてくださるものです。
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