エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#とってもいいよ

2019-12-20 02:59:00 | エリクソンの発達臨床心理
 
#日々の回心が大切 #創造の要 こそ #キリスト しかし #早とちりで愚かな私たち
 #エリクソンの叡智 #心魅せられることを信頼すること #日常生活を礼拝にする心の習慣 #人間になる条件 #事実だけでは生きられない #事実だけでは満足できな人間 ......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  をご参照ください。 
 
 Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
 
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
 
 p.340の 第2パラグラフから。
 
 今朝は,p.341の第6パラグラフ,(4)の5行目から。
 
 
 
 
  別の論文で(エリクソン,1964),申し上げてきたことは,人間にとって最も根源的な人品である,「聖書の神様に望みを掛ける希望」は,魂が聖書の神様のいのちに繋がって,「とてもいい」と許されて,確かにされることです。魂が聖書の神様のいのちに繋がって,「とてもいい」と許されて,確かにされることって,赤ちゃんの時に,母親と仲間になって,互いに大切にし合うことから,バラバラにならずに,ピッタリと一心同体になっていることなんですし,同時に,全ての人間にとって,梵我一如の心の習慣(梵我一如の約束)をギフトとして,プレゼントしてくれるものなんですから。「聖書の神様に望みを掛ける希望」が地に足を着け,生活の中で育つのは,赤ちゃんの舞台ですし,敢えて申し上げれば,あらゆる毎日礼拝とあらゆる儀式のおかげで,仲の良い親友関係の中で,育つものです。あらゆる毎日礼拝とあらゆる儀式は,コントロールされ,生きている実感の息の根を絞められて,聖書の神様を信頼する大文字の希望を見失っている習慣に,2人で立ち向かうことですし,聖書の神様のスピリットを魂に打ち込まれていることに気付いて,顔と顔を合わせて,一生涯,互いに大切にし合う光を約束します。それは,(訳注:新約聖書の「コリント人への第一の手紙」第13章12節にあるように)「私どもは,体得底で体験的に理解してもらっている様に,体得底で体験的に理解できるようになります」。
 
 
 
 Ⅱ 人間を上下2つに分けるウソ
 
 
 
 人間の毎日礼拝から心からの歓びをやり取りする,聖書の神様のまします場を分かち合うために,心の刻んでおかなくてはならないのは,聖書の神様のいのちが一巡しないと,相手をコントロールすることになる,ということなんです。
 
 動物の習慣は,そのほとんどがその動物の種類に特有の習慣ですが,何時でも強調しなくてはならないのは,人間は,「まがい物の人類」,すなわち,種族や一族郎党などの中で,進展してきたことです(その進展がどのようなものでも,どんな理由でその仲間に入ったかは,ともかく)。その種族や一族郎党は,まるで自分たちだけが神様の意思で創造のはじめに特別に創造されたかのように,振舞うんです。この「まがい物の人類」の振舞いは,自分たちが創造主の御心で,初めから特別に創造されたかのようですし,自分たちがこの世に存在することや,自分たち一族郎党の掟、それに,自分たちの身勝手な神権政治とイメージを、天地創造よりも大切にするかのようです。このように,ひとりびとりの人間は,「聖書の神様と一心同体になる実感とその習慣がバラバラ」になってしまいます。この「聖書の神様と一心同体になる実感とその習慣がバラバラ」になることが,人間が聖書の神様と一心同体に成ることそのものと,勘違いされてしまいますし,その勘違いが,他の「まがい物の人類」と対抗しながら,聖書の神様と人さまとを侮ることによって増長してしまいます。その侮りは,自分たちは特別だという壁を作り出しますし,唯一の「聖書の神様の創造」に預かる人間らしい企てに対して,敵意を持ちます。しかしながら,人が正しいと思っていることとは正反対に,生まれたばかりの新しい人は,どのような「まがい者の人類」にもピッタリと一体になれますから,長い子ども時代に間に,「まがい者の人類」の一味になってしまいます。このまがい者の一味になる,ということが,「毎日礼拝で家族の一員となる」個体発生の中にある厳然とした事実です。
 
 まがい者の一味になる「人類を2つに分けるウソ」についてお話しすることは,聖書の神様のいのちが一巡するのとは正反対です。しかし,いまここで,私が真正面から相対しているのは,ジグムント・フロイトの本能理論の中にある2番目のウソです。魂が自由になるいのちの中に「本能」という名詞が現れる時はいつでも,本能の派生語の「本能的」,あるいは,「本能に似た」という2つの形容詞のどっちかな? と問いを持つとお役に立ちますよ。つまり,強調するのが,行動の1つの「本能的なパターン」にあるのか? それとも,多かれ少なかれ冷淡で,ピッタリとくっ付くことから逸れてしまった1つの「本能みたいに,なかなか変えることができない行動や態度」なのか? どっちなのか? と問うことが大切です。心を自由にする術は,本能みたいに,なかなか変えることができない行動や態度を考えるのが,普通です。本能みたいに,なかなか変えることができない行動や態度は,やりすぎになっているのに,「ピッタリとくっついて一心同体に成る」という上等な意味で,本能的性質には欠けています(ハートマン,1938)。自由で膨大な本能みたいなエネルギーがある進化論的な根拠は,もちろん、エルンスト・マイヤーの用語では,人間が「様々な環境に適応できる万能選手」であるという事実にあります。すなわち,人間は,様々に人を駆り立てるありふれた気持ちを,様々な学びや,様々な人との出会いに,活用して,長い子ども時代の間に,互いに大切にし合うこと,2人が一心同体になること,聖書の神様と一心同体になることを,それぞれ強め,広げるように,創造されているんです。互いに大切にし合うこと,2人が一心同体になること,聖書の神様と一心同体になること全ては,私(あるいは,いまここにいる私であるキリスト)が示そうとしていることですが,その人ならではの毎日礼拝が一番気高く確実に育ててくれます。
 
 私が「最高に気高く」と申し上げるのは,人間の「行動の禁止事項」と「心の中の禁止事項」は、やりすぎになりがちで、2人が一心同体になること反するからです。それは,人間が本気で押さえつけようとする,自分を駆り立てる気持ちがやりすぎになるのと同じです。心から自由になる時には,ですから,私ども夫婦は,「押さえつけられたところに立ち返って,押さえつけずに,いのちを一巡されましょう」と,お話しするようにしています。押さえつけられたところに立ち返って,押さえつけずに,いのちを一巡されましたら,本物の毎日礼拝が「人品を発達創造させる気高い生き方」というギフトを下さいます。「人品を発達創造させる気高い生き方」にあっては,無理強いや我慢のし過ぎはあり得ませんし,社会全体がウソとゴマカシで溢れることも,罪を犯した人たちに厳罰を声高に叫ぶことも,あり得ませんでしょ。もしそうならば,ウソのない最も真面な毎日礼拝がお役に立つ,3つの肝心要の歓びが少なくともあります。
 
(1)ウソのない毎日礼拝は,内的促しされた関わりを,互いに大切にし合う唯一無二のパターンにシッカリとむすびつけます。互いに大切にし合う唯一無二のパターンのおかげで恵まれるものは,危険なほど複雑な厄介ごとを,なるほど本物だと腑に落ちる,一心同体体験です。お母さんと赤ちゃんは,これまで申し上げてきましたように,最初の毎日礼拝で一心同体になりますから,一心同体になれた赤ちゃんは,自分が生きていく上で欠かせない様々なニーズを,星座みたいに一纏めにすることができます。自分が生きていく上で欠かせない様々なニーズの中には,口のニーズ,五感のニーズ,触れ合うニーズ(フロイトの自分と人を大切にする理論では「ア~ンと開かれた口」として,割り当てます)がありますし,本来はバラバラな体験を,お母さんに心から大切に世話してもらうことで,ピッタリと一纏まりにしてもらいたいというニーズがあります。出産後の母親も,自分が子どものニーズを1枚の布にするように一纏まりにするには,ニーズがたくさんあります。なぜならば,「特別に大切な自分の赤ちゃんという仲間」の母親に,「特別に大切にする生き方で」ならなければならないからです。それは,そのお母さんが,生まれながらにお母さんになる素質が豊かに与えられていても,その子の唯一無二のお母さんになることをいくら,愛着パターンからして歓んでいようとも,ニーズがたくさんあることには,変わりません。「特別に大切な自分の赤ちゃんという仲間」の母親に,「特別に大切にする生き方」で,お母さんたちは,それは御免だと思い煩う(心配で避けるのは,なんとなく怖いと感じることもあれば,上から目線でそうなる場合が多いんです)こともなく,なれます。それは御免だと思い煩うのは,「よそ者」の種類,「よそ者」の生き方でして,(意識してないことも多いのですが)お母さんが嫌いで,バカにした,憎んで,あるいは,怖がる生き方なんです。それは,お母さんが,聖書の神様が死んでいること,悪魔が支配することを嫌ったり,穢れや悪い態度を嫌ったりするのと,同じです。
 
(2)お母さんが「本当の自分を生きて,生きている実感を体感する」ことが聖書の神様から徹頭徹尾許されて,同時に,仲間の人生の習慣のためにも役立つ中で,毎日礼拝は,お母さんが傲慢にならないように,守り神になってくれます。
 
(3)赤ちゃんの様々なニーズに即座にこたえる中で,互いに大切にすることができれば,毎日礼拝も,また,大人と子どもが,世代を超えて,いつも何度でも,ピッタリ一心同体にお互いになれる土台作りになります。と申しますのも,このお母さんが繰り返し立ち返る,気高い人生の習慣は,自分を手塩にかけて大事にしてくれた自分のお母さんと一心同体に成る中にあるからですし,お母さんのお母さんらしさが繰り返し立ち返る,気高い人生の習慣は,自分の赤ちゃんに心響く関わりが増すお陰で,晴れ晴れとした真心から湧きだす心から優しい態度となるからです。聖書の神様のいのちが一巡する母子関係,という天国の中では,その天国の赤ちゃんは,晴れ晴れとした真心から湧きだす心から優しい態度を体得する自分が(この自分は,聖書の神様のいのちと繋がった自分を心から大切にする自分 と呼べます)が育ちますが,この自分は,晴れ晴れとした真心の塊から湧き出す心から一番優しい(不思議なことに,ときどき意地悪です)「聖書の神様」が「とてもいいぞ」といつでも何度でも認めてくれることの中に体得底で根付いているんです。
 
(4)毎日礼拝がプレゼントしてくれるのは,自分の魂が聖書の神様に従う根っこです。人類ひとりびとりの魂が皆対等に成るために,魂が自由になる中で,自分の魂が聖書の神様に従う根っこのおかげで,私ども人類は,泰然自若な「不動の自分」ができます。そして,赤ちゃんとお母さんが一心同体に成り,2人が「不動の自分」になるのは,,聖書の神様と一心同体になることが次第に発達する(思春期にあっては,聖書の神様と一心同体になることは,封印された秘密です),はじめの一歩です(エリクソン,1965)。聖書の神様と一心同体になることが次第に育つことは,「聖書の神様から,真如から勇気を貰える」毎日礼拝のおかげで育ちますし,それは「2度生まれ」をいまここで繰り返し生きることです。聖書の神様と一心同体になることが次第に育つと,子どもの頃体験した一心同体になったことの全てを「とてもいいぞ」と認められたと実感できます。
 
 
 
 
 
 人間は,不思議なもので,自分で自分を「善し」とはできないものらしい。
 日本では,「善し」としてくれる組織や上長に依存する対人関係依存症の人がとっても多い。
 自分たち人間を超える聖書の神様(あるいは、阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)から,「とってもいいぞ」とされるのが,人類が長年営んできたスピリチュアルな生き方です。
 

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