#大文字の希望 #神の命の両輪の不思議 #全てを許す物差し #信頼しあう2人自分を「ゴミ」と呼ぶマリア 本当に私が生きてる、って感じる時は・・・ 人を大事にすること ≠ 葛藤がないこと 「子どものため」と言ってやってること......
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Identity and the life cycle 『聖書の神様と一心同体になること と 聖書の神様の命が一巡すること』 p.87。 新しい節の第2パラグラフ,6行目途中から,です。
いつも出来た,と言えるまで頑張ること 対 自分も人も貶めること
最初の舞台は,人格は,「私は与えられた存在である」と確信したその確信を出来事にすることですし,第2の舞台は,「私は歓んでなろうとする存在である」と確信したことを出来事にすることですし,第3の舞台は,「私は,歓んでなろうとする存在をイメージしている存在である」と確信したその確信を出来事にすることだ,と人は言います。私どもは,第4の舞台,すなわち,「私は学んだ者である」と確信したその確信を出来事にするところに,歩みを進めなくてはなりません。第4の舞台の子どもが,ここで教えてもらいたいことは,大事なことを大切にする関わり方ですし,他人を大切にする関わり方です。
このモノや人を大切にする関わり合いも,また,創造の初めから,始まっています。特に,聖書の神様の一人子,キリストの中から,モノや人を大切にする関わり合いは,始まっています。子どもたちは,物事がどのように成就するのか見てみたいし,物事を「出来た」と言えるようにしたいと願うものです。もしも,子ども達が恵みに与れば,裏庭や道で,気配りの利く人や意気盛んなたくさんの子ども達に囲まれますから,「試したらいい」と言ってくれる内的促しの中で,やれることや自分から関わる関わりが育ってくるにつれて,目覚めて試すことや,日常生活を礼拝にして聖書の神様がまします場を仲間と分かち合うこと,ができるようになります。しかし,いまは「言い伝えを学ぶ場に行く」時です。すべての文化において,この人生の舞台では,子ども達は,共に独立自尊の生き方ができるような学びを受けるものです。もっとも,学校のようなところに必ずしも行くわけじゃぁ,ありませんけれどね。学校というところは,読み書きそろばんができる人達が,読み書きそろばんの教え方を学んだ教員を中心に組織しなくてはならないとこですね。読み書きそろばんができていない人は,多くのことを学ばなくてはなりませんが,その学びを教える教員は,約束を大事にして関わるよりも,大声を出して関わることになりがちな人がなりますもんね。それに,本当に多くのことは,目上の子ども達から学びます。
ここでも,エリクソンの鋭い視点が見逃せませんね。
教員は,約束を大事にする人よりも,デカい声の人がなるもんだ,というのですから。この声のデカさはヴォリュームというよりも,その押しつけがましさをいうものです。
独立自尊の人間になるためには,押しつけがましい教員は,ミスマッチです。
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