本物の指導者は、連帯しようと心を砕きます。それに対して、精神が傷んだ指導者は、バラバラ好きです。バラバラ好き。この手の人は、「人類を上下2つに分けるウソ」の信者です。信じていることからして、バラバラなのですね。そこで、なんとか自分は「上」になろうとするのです。ですから、「下々」のものに対しては、見下す態度をとりながら、「理解が得られるように、今後も努力します」などと、何の臆面もなく言えるのです。つまり、「言ってること」と「やってること」もバラバラです。「下々」は、日本の市民(日本国民)であり、韓国(朝鮮)や中国の市民です。安倍晋三首相がやっていることは、「打っておいて、『打ってないことを理解してもらえるように努力します』と言っていること」に等しいでしょう。「人類を上下2つに分けるウソ」の毒が、どれだけ猛毒かが、ハッキリ分かるだろうと思います。
自由(ゆとり)と規律、冒険と伝統、をそれぞれ組み合わせたいと若者が願うとき、それは若さに似合うことですが、若者は、右から左まで、上から下までの、いろいろな献身に付け入るかもしれませんね(同時に、付け込まれるかもしれません)。困難や規律に身をさらして、様々な場に好都合な、聖別された好機を求めているのかもしれませんし、不思議な年季奉公をしているのかもしれませんし、あるいは、フロンティアの呼びかけに注意を向けているのかもしれません。新しい国の辺境で人は、(自分のではなく、誰か他者の)聖戦を戦っているのかもしれませんし、車の力を試しているのかもしれません。同様に、若者は、物理的暴力を進んで振るい、反抗、反乱、リンチなど喧しい音を喜んで立てるのです。その時若者は、そこに含まれる本物を少しもわからず、その本物には少しも心を砕かないのです。他方、若者は肉体的鍛錬をしたり、徹底的に知的に集中したりする規則に従おうとするのに一番熱心で、古典に学んだり、黙想したり、新しいこと、たとえば、現代思想改革が示す、集団の「言行一致」におけるように、新しいことを求めるのです。適当な原因がなくても、若者が破壊や拒絶をすることになるのは、それはまるで、非道なやくざ、変質者や嗜癖の人たち、上に媚びても下には横柄なケチな連中のようですが、ある種の服従、ある種の連帯、つかみどころのない価値に対する、ある種の帰依がある時だけなのです。
若者の献身と拒否を、エリクソンがより具体的に示してくれました。 若者が暴力や不寛容を示していても、それは、ある種の服従と連帯と価値へ献身があるのですね。その辺の事情を、エリクソンが見事にまとめているところですね。
本物に気付いて、本当を理解するのには、ふつう時間がかかります。天才なら直感的に、短時間で、本物に気づき理解することも可能ですが、それは例外。極めて少数でしょう。
若者は、当然、本物がなにかも判らぬままに、服従と連帯と献身を求められます。そうすると、偽物が「本物の顔をして」、付け込んでくるのです。危ない、危ない。安倍晋三首相が、アベノミクスを叫び、愛国心をかまびすしく言うのは、偽物が(本物の顔をして)、若者たちに付け込もうとしているからでしょう。こういう輩には、ハザードサインを示しつつ、同時に本物を陽気に楽しく示し続けたいものですね。
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