自由にものが言えない、言わないのが、多くの日本人の在り方ですが、それがパレーシアの文脈では、奴隷を意味するというのは、日本の現状を考えるうえで、非常に建設的な視点です。
この文脈で、「パレーシア」がないことと奴隷の状態の結びつきが、改めて分かります。なぜなら、もしあなたが、家族の恥さらしのゆえに、モノを自由にいえないならば、あなたは奴隷にされているからです。また、市民権それ自体は、言論の自由を手に入れ、行使するだけでは、十分とは言えないようです。誠実で、自分と家族に関するよい評判は、その国の市民に自由にものが言えるようになる前に必要なことです。「パレーシア」にはこのように、倫理的品質と社会的品質がともに必要ですが、その2つは、高貴な生まれと尊敬される評判から生まれるものなのです。
パレーシアは、自由にものが言えると同時に、倫理的に評判がいい、ということも必要なのですね。
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