女性が、女性らしく生きることができることが、実は、男たちにとっても、子どもたちにとっても、有益なことが分かりきます。
p235の10行目途中から。
西洋の人たちは、たとえば、インドの今の女性から、歪められていない女らしさを、たくさん学ばなくちゃいけないことがありますでしょ。でもね、新しいフェミニズムが、「人類皆兄弟」に一層近づくものとして、世界的に広がっていますね。この信念に基づく、フェミニズムの世界的流行は、極端に善悪相半ばすることは確かなことですが、人類の将来は、男だけにかかるものではなくて、技術屋の男の手に余る「母親の変数」の運命次第なのですね。このように考えることに対する抵抗が、男からも女からも出てくるのが常ですが、その人たちは、男でも、女でも、持ち味を強調することが、平等でないことをさらに強調することにねなりはしないか、と非常に恐れているんですね。実際に、いろんな生育歴を研究すると、男でも女でも、かなりの程度同じだ、ということを確かにすることになります。いろんな生育歴は、この世界を正確に組立て、論理的に思考をまとめ上げ、言葉を組み合わせていることを表わしている限りそうなんですね。ところが、生育歴の研究をすると分かるのは、少年でも少女でも、同じように考え、同じように振舞い、同じように話をするのですが、自分の身体は(そして、世の中も)、同じようには経験していない、ということなんです。
エリクソンは、男女の性差が、性役割の違いをもたらす結果、この世の中で経験する内容も変わってくる、ということをチャァンと認めてんですね。この当たり前のことを、「学者」と呼ばれる人たちだとか「学問」と呼ばれるものだとかは、無視しやすいものなんですね。「立派な」学者が、世間のことを知らなかったり、「立派な」理論が、机上の空論と呼びたくなるようなものになりがちな所以も、このあたりにありますよね。
しかし、さすがはエリクソン。自分や自分の家族の経験を、豊かに理論の中に取り入れているんですね。
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