アイヒマンの裁判の冒頭場面です。
『エルサレムのアイヒマン』Eichmann in Jerusalem の3ページの6行目途中から。
裁判官たちの長い壇は、数えきれない数の本が置かれ、15冊以上の証拠書類が、速記者の隣に並べられていました。裁判官のすぐ下には、通訳がいて、被告人、ないしは、被告代理人と裁判所が直接的にやり取りするのに、通訳が必要なんですね。その他は、ドイツ語を話す被告側が、ほとんどの傍聴人と同じように、ヘブライ語の訴訟手続きを理解できたのは、同時通訳の無線のおかげです。同時通訳は、優れたフランス語ですし、まあまあの英語なのに、本当の喜劇なんですが、しばしば理解不能なドイツ語です。
処刑という結論が決まっていたからでしょう、裁判の中身が被告側に理解されてもされずとも、どっちでも良かったんですね。ドイツ語が第一言語だった、アーレントは、同時通訳のドイツ語が滅茶苦茶なことは、すぐに理解できたでしょう。同時に、この裁判の性質も…。
何よりも、原理を大事にする哲学者にとって、その裁判の性格がどのように映るのか? それは火を見るよりも明らかですね。
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